いつかの君に優しい世界で | ナノ
死せども孤独


広げた時点で分かっていたが、手渡された服を着てみるとやはり大きかった。着心地を確かめるように腕を前後に軽く振ると、空気がするりと肌を滑る。ほのかに香った匂いに、治まったはずの頬に再び熱が集まった。

ドアを開け廊下に出る。突き当たりにある磨り硝子のドアから光が漏れていて、誘われるようにそこへ足を運んだ。ドアに近づくと人の気配がして、控えめにノックをする。
返事がしてドアを開けてそろりそろりと顔を覗かせると、キッチンに先生が立っていた。それを確認して部屋に入る。先生は部屋に入ってきた私を一瞥すると、リビングのソファを顎でしゃくる。

「座っとけ」

入り口で立ち往生する私を訝しんで促す先生は至って普通、いつもの先生だ。電話したときに聞いたような感じはない。
言われた通りおそるおそるリビングに向かい、ソファではなく床に腰を下ろした。足に触れたカーペットは柔らかく、暖かい。
それを見て眉を顰めるのは先生だ。私が床に座っているのを見た先生は不満げな声をもらした。

「なんで床に座ってんだよ」
「だって……失礼かな、って」
「俺がソファに座れっつってんのに失礼もクソもあるか」

そう言いながらグラスを手にキッチンから出てきて、ひとつを私に差し出す。有り難く受け取ると、少しだけ口に含んだ。冷たい麦茶だ。私の隣に腰をおろした先生が飲んでいるのも麦茶だった。
それがなんだかおかしくてつい笑みをこぼすと、先生が不思議そうに私を見る。

「なに笑ってんだよ」
「いや、だって……先生、コーヒー以外は飲まない人だって思ってたから、ちょっと驚いて」
「なんだそのイメージ。俺だって麦茶も飲むし炭酸飲料も飲むわ」
「ぷっ……あはは、炭酸!」

ついお腹を抱える。こんなに笑ったのなんていつぶりだろう。というか、たかが炭酸飲料でツボに嵌まってしまう私も私だ。
そう思いながらも笑っていると、脇腹が鈍く痛んだ。たぶん、暴れたときにでも打ったのだろう。あのときのことを思い出し身体が強張る。それに気づいた先生が優しく私の頭を撫でた。すると身体の緊張がほどけていくのは何故だろう。私にはとうてい分かるはずもなかった。

「さて……」

そう呟いて、先生はぼんやりと壁を眺める。何か考えているようだったが、それを訊くのも野暮だ。静かにしているのが良いのだろうが、私にはその静けさが心地悪い。この感じ、前にも経験した記憶がある。

「……あの」

沈黙に耐えかねてとうとう口を開くと、先生がゆっくりと私に視線をやった。

「どうした」
「何があったのかとか、訊かないんですか」
「……訊いて欲しいのか」

いえ、と返してうつむく。似たような感じがあると思ったら、このやりとり、保健室でもやったじゃないかと心の中で呟いた。
軽く唇を噛むと、不意に先生が立ち上がり再びキッチンに向かう。何やら物音がして、少し経って戻ってくるときには手にタオルを持っていた。

「そのままにしとくと、目、腫れんぞ」
「……ああ……」

渡されたタオルにようやく合点がいった私はぼんやり頷いて、それを目にあてた。熱を持ったそこに冷たいタオルは気持ち良い。

「訊きたいことはたくさんあるが、そんなに急ぐことでもねえだろ」

呟くように言った言葉をうまく理解しきれなくて首を傾げると、グラスを手に先生が「だから」と続ける。

「今は休む方が先だろうが。そういう話は明日に回して、今日はもう寝ろ」
「……はい」

タオルをあてながら頷くと、先生がまた頭を撫で始めた。はじめはなんともなかったのに、次第に涙が溢れてきて我慢できなくなる。小さく嗚咽をもらすと、さらに優しく撫でられた。

「泣け泣け、そんでもってさっさと寝ろ」

先生の、ぶっきらぼうな物言いとは正反対の手つきに心の中で小さく笑って、私はまた泣いた。
誰かの温もりで泣いてしまうなんて初めてだ。それほどまでに私は、温もりに飢えていたのだろうか。だったらいったい、いつになれば満たされるのだろう。どれだけ考えても分からなかった。



14.09.04

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