いつかの君に優しい世界で | ナノ
最果てにて絶叫


背筋が凍った。身体からさっと血の気が引いていくのがよく分かる。気持ち悪い。泣きたかった。

完全に油断していた。先生からの雑用や、第二候補の職場への試験などでここのところ毎日がそれなりに忙しく、家のことなど思い出すこともなかった。
自分の身体は思った以上に疲れていたらしく、夕方にうちに帰ってきてベッドに横になると、あっという間に眠りに落ちていた。家には誰も居なかったこともあって、気を抜きすぎていた。

異様に汗ばんで熱い手のひらが身体を弄っている。荒い呼吸が耳元で聞こえた。いま叫んでは、出かけているであろう母に面倒な形でばれてしまう。そうなれば修羅場になることは目に見えていた。母の怒りの矛先が私に向かうであろうことも、もちろん予想できた。
私がまだ寝ていて抵抗しないと思ったのか、手つきがだんだんと大胆になってくる。母が帰ってくれば相手はこんなこと止めるだろうに、こんなときに限って母はいない。
嫌だ、怖い、気持ち悪い、いやだ。助けて、誰か。
──せんせい。

「っいやだあああああ!!」

頭に先生の顔が浮かんで、気づけば思い切り叫んでいた。身をよじって力いっぱい抵抗した。叫んだときは一瞬怯んでいた相手はしかし、にやりと下卑た笑みを浮かべて私にのしかかってくる。いよいよ危ないと感じた私は必死に手足をばたつかせた。暴れると無理に服を引っ張られ、悲惨な音を立てて破れた。
何度も叫んで暴れていると、運良く私の足が相手の急所に当たった。暴れていたこともあってその勢いは強かったらしく、向こうが呻いて固まる。その隙に脇からすり抜けると、机に置いていた鞄を掴んで部屋を出た。

外はとっぷりと暮れていて真っ暗だった。都合がいい。私は裸足なのも構わずに走り出した。どこでもいいから家から遠いところへ逃げたかった。一目のつくところや明るいところは避け、一心不乱に走っていく。体力がなくなってもう足が前に出ないようになったころには家からかなり離れているみたいだった。
肩で息をしながら近くに隠れられる場所を探す。ちょうど近くに人気のない公園を見つけ、力が抜け震える足取りでなんとかそこへ向かうと、象の滑り台の下へ潜り込んだ。

「はっ、はっ、はあっ、……っ」

走りすぎて痛む胸をおさえる。苦しい。涙があふれた。

「はあっ、く、う……っ」

身体が震える。自分で抱き込んでみても震えは止まらない。猛烈な吐き気と悪寒はしばらくおさまることはなかった。
……もういやだ。なんで私がこんな目に。助けて、助けて先生。

「──せんせい」

はっと顔を上げる。足元の鞄を引き寄せると、がさがさと漁り始めた。
確か、あれから家に帰ったあと、無くさないようにと鞄にしまったはずだ。汚れないような場所、たぶん内ポケットあたりに──。

「……あった」

手にしたのは小さな紙、先生があの日くれた名刺だった。携帯も引っ張り出し急いで裏に書かれてあった数字を打ち込む。
呼び出し音がして、数コールで肉声に変わった。先生だ、先生の声だ。

『……もしもし』
「……っ、」

声が聞こえた途端に涙があふれ、話すことができなくなった。電話の向こうでは先生の訝しむ声がする。なんとか説明しようとするのだけど、嗚咽のせいでうまく話せない。
先生は次第に口数が減っていき、やがて何も喋らなくなった。早く私だって説明しないと、先生は間違い電話やいたずら電話だと思って切ってしまうかもしれない。それだけはいやだ。
そんな心とは裏腹に嗚咽は強くなっていく。先生は何も喋らない。待って、切らないで。そう焦る私の電話口から、静かな声が聞こえた。

『──ゆきか?』
「ひっ……う、」
『ゆきだな、どうした。何があった』

私だって、分かってくれた。不思議と安堵した。ぎゅっと携帯を握る。私は泣きながら、叫ぶように声を絞り出した。

「たすけて、せんせい……!」



14.06.19

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