いつかの君に優しい世界で | ナノ
およしなさいな


手当てはびっくりするほどあっさり終わった。ただ氷嚢を手渡され、それを頬に当てておけ、と言われただけだった。あまりの簡単さに思わずぽかんとしていると、私の視線に気づいた先生が眉を顰める。

「なにしてんだ」
「え、あ、すいません。すぐ退きます」
「あ?違ェだろ」
「え」

意思疎通がうまくはかれていない。会話の噛み合ってないことに戸惑っている私に、先生が続けた。

「他に手当てすべきとこがあんじゃねえのか?」

血の気が引いた。先生からでも簡単に分かるほど顔色が変わったみたいで、くつくつと笑う声が聞こえた。

「なに、言ってるんですか……他に怪我なんて、どこにも」
「明らかに顔色が悪い、右足を庇ってる。──見え透いた嘘をつくな」

何も言い返せずに俯く。そのまま動こうとしない私に、先生が呆れるのが分かった。

「服脱げ」
「……はい?」

突然の一言に思わず顔を上げると、真顔の先生と目が合った。状況についていけない脳がとうとう思考を停止した。

「服を、脱げ」
「え、な、なっ、──え!?」
「早く脱げよ。脱がされてェか」

そう言って近づく先生に、私もゆっくりと後ずさる。この人はなにを言ってるんだ。

「突然何を言い出すかと思えば……煙草の吸いすぎですよ」
「よし分かった、脱がされてェんだな」
「わっ、ちょ、せっ……セクハラですセクハラ!」
「なら素直に言うこと聞け」
「いやー!セクハラー!」
「おい、キャラ変わってんぞ」

なんの躊躇いもなく制服に手をかける先生に必死で抵抗すると、とうとう先生が苛立つ。

「いいから大人しくしろ!」
「ひっ……」

怒られたのとスカートを捲られたのはほぼ同時だった。思わず声が引きつる。下に短パン履いてて良かった。ショックのあまり硬直する私をよそに、先生はじっと足を見ている。もうだめだ。そんな言葉が頭をよぎった。いろんな感情が混ざって体がひどく強張っている。膝まで震えて、吐き気までするのだから困ったものだ。

「……いつのだ」
「え……」

捲られていたスカートを下ろして先生が言う。声音に怒気が含まれていて、表情もなんだかいつも以上に険しい。そのあまりの剣幕に言葉に詰まった。
先生は考え込むように瞼を伏せたまましばらく黙り、やがて何も言わずに手当ての準備をし始める。私も私で先生の変わりように反抗できず、されるがままになっていた。

「痣、上半身にもあるだろう」

静かに言われ、小さく頷く。

「昨日のです。珍しく夜も機嫌が悪かったみたいで、……急に癇癪を起こして」

そうか、と呟くように言って先生は黙った。
この気まずい空気のまま夕方まで過ごすのだろうか。それならいっそ帰って、どこかのお店にでも行って時間を潰した方がいい。その方がお互いにいいような気がする。そう言おうとしたその瞬間、先生が口を開いた。

「それだけか」

要領を得ない質問に、開きかけていた口が閉じる。先生は片づけながらもう一度繰り返した。

「本当に、殴られただけか」
「……はい」

質問の真意がよく分からないが、とりあえず頷く。先生の何かを探るような目が私を捉えて、私はつい視線を逸らした。
もうここにはいられない。早く出て行きたい。早く逃げたかった。

──今度はどこに逃げるんだろうね。
ノートを鞄に詰めている途中、いつかに誰かがこぼした言葉が頭に浮かび、手が止まる。
また逃げるのか、と非難するような視線が頭から離れない。私はいつの間にか、ここを新しい避難所にしていたのだろうか。あれだけ嫌がっていたこの場所を、あれだけ避けたいと思っていた先生を、頼っていたのだろうか。
そう考えると、なんだか急に恥ずかしくなった。あんなに近寄るまいとしていたのに、今ではこの通りの有り様だ。もうここには来られない。早く帰ろう。文字通り逃げよう。

一刻も早く、と荷物をまとめる。不意に、今まで沈黙を貫いていた先生が私を呼んだ。

「──水野」
「……っ、はい」

おそるおそる顔を上げる。先生は既にデスクに戻っていて、私がまとめている途中だった資料に目を通していた。視線は資料から離さず、すっと何かを差し出す。その何かは、小さな白い、──名刺だった。高校の名前と電話番号、『養護教諭 高杉晋助』と書かれただけの簡素なものだ。

「なんですか、これ……」

訝しく思い、不審そうな声が口に出た。なんの気なしに裏を見る。そこには印刷ではなく手書きの見慣れない数字が並んでいた。びっくりして先生を見やると、当の本人はけろりとしている。

「先生っ、これ」
「また何かあれば電話しろ。手遅れになったら意味がねェ」
「いりません!これ、こんなこと、誰かに知られたら……」
「黙ってりゃ問題ない」
「でも、」
「いいから持っとけ」

鋭い視線が私を射抜いた。思わず息を飲む。

「いいか、今度また何かあればすぐに連絡しろ。すぐにだ」
「何かって──」
「自分の身に危険が迫るような時に決まってんだろ。解ったか?」
「……」
「返事」
「……はい」

しぶしぶ頷いて、名刺をポケットにしまい込んだ。先生は納得したのか、また資料に目をやる。そこで何か思い出したのか、部屋を出て行こうとする私を引き止めた。

「これ、途中。明日も来い」

そう言ってあの資料をひらひらさせて見せる。その何気ない言葉に、心のどこかでほっとする自分がいた。逃げてきてもいいのだと、何故だかそう思えたのだ。
私は頭を下げると廊下に出た。あの走り書きの数字の羅列が、たまらなく私を安堵させた。そして、先生の下の名前が晋助というのだと初めて知った。



14.03.28

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