いつかの君に優しい世界で | ナノ
僕を殺した君のまごころ


やられた。

今日は休館日で、どう過ごすか考えているうちに気を抜いてしまった。ほんの少しぼんやりしているつもりだったのに、いきなりこめかみに強い衝撃が走った。呆気に取られているうちに次がくる。今度は左肩。
その場をなんとか逃げ出すと、もつれてたたらを踏む足を必死に動かして部屋に転がり込んだ。ほっとする間もなく鍵をかけ、あとから自分で取り付けた南京錠も施錠する。そうしてようやく、私はひと息つくことができた。

ドアの向こうから母の何かを喚く声が聞こえたが、日本語になっていなかったため理解はできなかった。おそらくは私を罵る言葉だ。律儀に聞く必要もないし、そのまま耳を塞いで大人しくなるのを待つしかない。それにも既に慣れてしまった。

罵倒は、長いこと続いた。ドアを叩く音と罵声は止まる気配がない。うまく聞き取れなかったが、わざわざしっかり聞いてやって自分が傷つくのは馬鹿げている。ずっとベッドの端に縮こまって、全てを遮断した。じっと息を潜めて、ほとぼりが覚めるのを待つのだ。

昔は、こんな母ではなかった。優しかったというわけではないが、暴力を簡単に振るうような人じゃなかった。私が生まれてすぐに父と離婚して、私を養うために夜の仕事をしていた母は、あまり私を好いているようではなかった。小学校にあがればちょくちょく家を空け、高学年にもなれば金を置いて出かけることが多くなった。
ちょうど私が中学にあがる頃。その頃から母がおかしくなっていった。自分の機嫌が悪いとすぐ手を上げるようになり、私を罵倒した。お前なんて、と罵りながら私を踏みつけ笑う母に、理解した。この人は私のしらない人だと。もうずいぶん前から“母親”ではなかったのだと。

そこからは簡単だった。母の機嫌の良いときにだけ話を交わし、それ以外は徹底的に距離を置いた。母も、そんな私に文句を言うどころかさらに自由気ままに過ごすようになった。
ただ、不意打ちの暴力と罵詈雑言だけは防げなかった。だからこうして何かあれば部屋に避難するようになったのだ。

気がつけば罵声もドアの叩く音もしなくなっていた。
ゆっくりと細心の注意を払ってドアに近づき、耳をくっつける。向こう側から気配はしない。たぶん満足して行ったのだろう。ようやく安堵した。

時計を見るとまだ昼前。小さく舌打ちして、考える間もなく机の鞄に勉強道具と文庫本を突っ込んだ。なるべく音をたてないように鍵を開け、ゆっくりとドアノブを回す。開いた隙間から様子を窺うが、母の姿は見えなかった。
そのまま忍び足で玄関に向かい外へ出る。出る間際、鞄が傘立てにぶつかって軽い音が玄関に響いた。しまった、と血の気が引く時間を与えず、リビングからどたばたと荒々しい足音とともに母のヒステリックな叫び声が聞こえる。何かが飛んでくる前に、転がるようにして家を出た。
敷地内から出て勢いあまってそのまま道路にまろび出る。ちょうどそこへ、一台の車が通りかかった。私の目の前で急ブレーキをかけた車から人が降りてくる。

「……こんなとこで何やってんだお前」

──高杉先生だ。
今日は運が悪い。一番出会いたくない人物に出会ってしまった。思わず俯くと、家からまだ母の叫ぶ声がする。ひっ、と喉が引きつった。最悪な状況で最悪な出会いをしてしまい、私の頭は異常なほどにいつもの冷静さを欠いていた。
そんな私を見てか、先生は黙って私の首根っこを掴むと車の後部座席に放り込む。そして抵抗する暇もなく発進してしまった。

「ちょっと……どこに行くんですか!」
「騒ぐな。スーツ着てんだから学校に決まってんだろ」
「そんな、降ろして下さい!」
「じゃあ来た道戻るか」
「そ、れは──」

思わず口ごもる。先生はミラー越しに勝ち誇ったような笑みを浮かべると、アクセルを踏み込んだ。
なんだかもうどうでも良いような気がしてきて、私は目を伏せた。結局のところ、私は逃げられないのだ。



14.01.28

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