5万打フリリク! | ナノ


誰かが咳をしているらしく、ごほごほと苦しそうにしていた。私はそれがたまらなくいやで、つい顔をしかめる。
昔から私は咳をすることが嫌いだった。理由はよく分からないが、咳き込むといつも頭や胸が痛む。どこかが悪いわけではないのだ。ただ、この行為が私にとってとてもよくないもので、意味もなく怯えたり泣きたくなってしまう。はあ、と重いため息に体のだるさがさらに増したような気がした。

だから電車は苦手だ。こうやって普段何気なくしている咳も、私からすればただの苦痛でしかない。この満員電車のなか耳をふさげる空間なんてないし、免許も持ってないから車で通勤、というわけにもいかない。困ったなあ、どうしようか。もうそろそろ我慢できなさそうだなあ。
電車が止まる。ちょうど自分の降りる駅だったので、人ごみをうまく避けながら電車から降りた。やっと降りれた。そう呟いて、ふう、と一息ついた。

「……なまえ、」
「はい……あ、高杉くん」

名前を呼ばれて振り返ると、そこには高杉くんがいた。学校帰りだろうか、着くずした学ランを身につけていた。

「学校帰り?」
「ああ。そういうお前は」
「私は仕事が終わったばっかり。それよりお前って……一応私の方が年上なんだけど」
「今年新社会人だろ、年なんて大差ねェよ」

そう言って高杉くんは露骨に不機嫌そうな顔をした。

私と高杉くんが初めて出会ったのは去年のことだ。あのころ私は就活で忙しく、ヒイヒイ泣きながらコンビニで求人情報を読み漁っていた。どれもピンとくるものがなく仕方なしにコンビニを出ようとした矢先、腕を掴まれた。それが高杉くんだった。
振り返った先にいた高杉くんは心底驚いたような顔をしていて、いや驚くのは私の方なんですけど、と私は内心びびっていた。高杉くんはしばらくの間じっと私を見つめて、そしてようやく震える声で呟いたのだ。

『――なまえ』

彼に名前を呼ばれたとき、なんで私の名前知ってんの?とか、どちらさま?とかいう疑問よりも先に、温かくて悲しい何かが私の体を駆け巡ったのを覚えている。懐かしくて寂しい何か。脳裏で誰かの顔が過ぎった。それから彼の「俺だよ俺」という新手のオレオレ詐欺のような必死な自己紹介を経て今に至る。

「いつもみたいに友達がいないみたいだけど」
「先に帰ってきた。……風邪引いちまったみてェで」
「えっ……大丈夫?熱とかない?」
「いんや、ちっと喉が痛むだけ」

そう言って高杉くんが軽く咳き込んだ。その途端に悪寒が走る。思わず吐きそうになるのを我慢して、ぐらりと視界が揺れた。
ゆっくりと呼吸を整える私を見て高杉くんが心配そうに背中をさする。

「わりい。咳、嫌いだったっけか」
「ううん、大丈夫。ごめんねえ、心配かけて。それより高杉くんこそこんな不特定多数の人がいるところにいたら、それこそ本格的に風邪もらうよ」
「はっ、お前は昔っから人の心配ばっかしやがって……」

ちったァ自分の心配ぐらいしやがれ。乱暴な言葉遣いとは裏腹にとても優しそうな声音で言われて、私も軽く頷きかけた。頷きかけて、――やめた。

私と高杉くんが出会ったのは去年のことだ。それに私は社会人で高杉くんは高校生。頻繁に会うことすらできず、ましてや過去のことを話し合えるほど思い出があるはずもない。それなのに、この子は今こう言ったのだ。
――お前は昔っから人の心配ばっかしやがって。
どうして互いのことすらろくに知らないのに“昔”の話ができるのだろうか。

「……高杉くん、私と高杉くんが出会ってからまだ日が浅いのに、なんで昔の私の話ができるの?」

そう尋ねれば、はっとした高杉くんはしばらく考え込むようにうつむくと、何か言いたそうに口をもごもごさせてからぷいとそっぽを向いた。

「……行くぞ。こんなとこにいたら、俺よりもお前が危ねェ」

そう言われて手を引かれる。私はぐるぐると正常に働かない頭を抱えながら、そういえば、と呟いた。
――そういえば、あの夢を見るようになったのは高杉くんと出会ってからだなあ。

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