「……お前なんでいんの」
第一声。あまり抑揚のない声でそう問われた。
「暇だったから」
「暇?仕事は休み?」
「そうだね、当分ね」
「え?当分って……は?」
「さっきから疑問符が多くないですか」
辞めました。さらっと言うと今度は大絶叫された。あまりにもうるさかったので、叫び声が治まるまで耳を塞いで待つ。いつまで叫んでんの。
「うるさいです先生」
「いやもうお前の先生じゃねえよ!つーか、は?辞めたって本気で言ってんの?」
「本気です。生徒を信じられないんですか」
みんな大好き銀八先生はがくっと膝から崩れ落ち、ああああ、と呻いた。
「お前なあ、せっかく俺も一緒に探してようやく見つけた職場だったのによお……!」
「……やっぱり、失望しますか」
ぽつりと呟くと、先生はゆっくり顔を上げて私を見やる。私はいたたまれなくなって、膝を抱えたまま視線を逸らした。
「なんか、あったか」
「うん」
「疲れたか」
「うん」
初めはとても良くしてくれた企業先がとんでもないブラック企業だと知ったのは、私が働き出してから一ヶ月が経った辺りからだ。重度のストレスと過労で休みをもらおうと上司に相談すると、そんなもの慣れろ働けの一点張りで相談は一蹴されてしまった。
労働基準法の労働時間を大きく上回る労働と凄まじいパワハラ、私の精神が持たなかった。
「いつ戻ってきたの」
「昨日」
「親御さんはなんだって?」
「失望したって。すぐ辞めるのはお前の意志が弱いからって」
「……そうか」
先生はそれだけ言って黙ってしまった。
仕事を辞めたことを親に話すと、両親は唖然とした後ものすごい勢いで怒鳴った。この恥曝し、お前が軟弱だからすぐに辞めるはめになるんだ、ご近所になんて話せばいいのか分からないでしょう、もっと頑張れるはずだ、甘えるな、なんで我慢できなかったの。
愕然とした。両親は自分たちの体裁と世間の目が大事で、私の一切の苦労に関しては触れてさえこなかった。結局はそういうことなのだ。
「しばらく家に入るな、当分の間頭を冷やせって追い出されました」
「だからってなんで俺の家に来るんだよバカヤロー」
「先生も私を叱るのかなって思って」
「なんなのそれ、お前マゾなの?罵られたいの?」
「こんな軟弱な生徒を持った先生がどんなふうに怒るのか知りたいだけです」
頭が冷えるまで家に入るなっていうのは、遠回しに『また職場に戻ると言うまで家には入れない』と言っているのだと思う。もちろんあんな腐ったところに戻るつもりなんてない。ずっと体裁でも気にしてればいい。
胡座をかいてがっくりと頭を下げたまま動かない先生に、やっぱり私に失望したのだと知る。別に慰めて欲しかったわけじゃない。怒鳴られるのなんてもう慣れてるし、たった一ヶ月で辞めた私に向けられる軽蔑の眼差しも覚悟している。
ただ、先生に知って欲しかっただけなのだ。恩師である先生には、私の口から。
「──ごめんなさい」
流れる沈黙が痛くて、我慢できずに頭を下げた。親にだって謝ってすらいないのに。
はあ、と深いため息をつきながら頭を掻く先生が視界の隅にちらついた。……やっぱりがっかりさせてしまった。申し訳なくて涙が出る。
じわりと滲んできた涙を何度もまばたきしてごまかした。先生には気づかれてない。
「別に、謝ることじゃねえだろ」
「え……」
不意に言われたその言葉に、私は何も言い返すことができなかった。今までの叱責とは違う。私を咎める言葉ではない。
涙をごまかすことも忘れてぽかんと先生を見ると、先生はいつものあの顔のまま両手を広げた。
「おら」
「……なんですかその手」
「空気読めてねーのかお前。せっかくこの俺が胸を貸してやるっつってんのによォ」
「ええ……」
「なんでそこで引くんだよちくしょ──うごっ!」
先生の不満そうな声はすぐにカエルが潰れたような、苦しそうな声に変わった。私が先生の胸に勢い良く突進したからである。それでも先生がバランスを崩して倒れることはなく、ちゃんと私を受け止めた。
そのまま動かないでいると、しばらくして頭を撫でる感触がして、また泣きそうになった。
「頑張ったよ、お前」
優しい声が鼓膜を揺らす。瞼がかあっと熱くなって、こらえきれなくなった涙が目尻から溢れてきた。さらに先生の胸に顔を押しつけると、先生の苦笑が降ってくる。それでも頭を撫でるのは止めなかった。
「怒らないんですね」
「人それぞれだろ、お前が限界だったんなら仕方ねえし。体調が崩れる前に辞めて良かったな。一度体壊すと、次までがなげーから」
「……そう言ってくれんの先生だけですよ」
「次があるって。一回仕事辞めたくれーで落ち込むな」
「……うん」
あやすように頭を軽く叩かれて、私は小さく頷いた。やっぱり先生は変わらないなあ。
「このあとどうしよう」
「あ?」
「仕事に戻るつもりないから家に帰れない」
「へー……」
私が言うと先生はちょっと考え込むように静かになり、そうだ、と私を見下ろした。
「俺がいない間の家事でもするんなら、ここに置いてやることも考えんでもないけど」
どや顔の先生を見ていたら、無性に笑えてきた。お腹を抱えて笑い転げる。先生はたいそうご立腹だ。
「てんめェェェ!」
「あっははははは!先生ほんと面白い!ふひひひ」
「人の厚意を無にするつもりかテメーは!」
「先生」
「おっ……おう」
突然かしこまる私に、若干戸惑った先生までもが背筋を伸ばす。私はそのまま三つ指をついて頭を下げた。
「ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
「嫁じゃねーかよ」
お互いに目を合わせて小さく笑う。先生の家に来て良かった。とりあえず衣食住は保証されたわけだ。あとは自分でどうにかしよう。
先生の汚い部屋を見渡しながら、仕事を見つけるのはもうしばらく先だなとひとりごちた。
(120407)
全て願望の塊です。