ヴィーナスの片思い前篇

 耳元で、メロディーが鳴っている。
 染み渡るような、甘い音楽。
 あなたの声みたい。



【ヴィーナスの片思い前編】


 意識がぼんやりと起き上がる。頬に当たる柔らかい感覚が枕だということは、目を閉じていてもわかった。
 ラビはうつ伏せで抱え込んだ枕から少し顔をずらした。目蓋の外が明るい。もう朝らしい。
 今日は月曜日だ。
 夏休み。
 だけど部活がある。
 起きなきゃ。

「・・・ぁ、う・・・もう、少しだけ・・・」

 前日の日曜。部活も何もなくて、丸一日を掛けて独り暮らしの部屋の掃除を行った。
 掃除機っていうのは定期的に掛けないといけないらしい。忙しさに感けていたままに、絨毯には埃が溜まってた。
 窓を全開にして、掃除機をかけて、シーツとクロスとカーテンを洗濯、毛布とカーペットを虫干しし、そして本棚に入りきらなくなってきていた書籍を通信販売で買ったばかりの、組み立て式のラックに収納する。
 冷蔵庫の中身が、一つ火を通せば澄むようなものばかりだったくせに、なかなか手をつけていなかったせいで賞味期限切れになっていたので、試しに試食してみたりしたり、めんどくさい家事といわれるものごとを総じて遣り通した。
 女の一人暮らしで、こんなに物臭だとリナリーには怒られてしまいそうだ。

「・・・いま、何時・・・さ」

 さっきから、枕もとで置いている携帯電話が鳴っている。
 アラームは決まって電子音。目覚まし時計の設定は必須になっていた。
 遅刻常習犯の自分には必要不可欠。アラーム一つで起きたためしは無いけれど。

(目が、ひらかんさ)

 体がぎしぎし言ってた。結構な重労働だった。ラックは一メートルと八十近くあって、ステンレスのパイプは予想以上に重いし、タンスだって洋服が入っていればそれなりに強固として床に聳えている。普段男勝りだから、と言っても自分は本物の男じゃないのに強がって大掃除を誰にも手伝ってもらわなかったから。
 もともと、手伝ってくれそうな奴は、昨日逢えなかったけれど。

『〜〜♪』

 手の中の携帯が酷く五月蝿い。こんなにアラームはしつこかったっけ。
 枕が名残惜しいのに、体はまだ布団を恋しがっているのに、ラビは耳障りな音に身体を起す。
 良く聞いていると、それはアラーム音じゃない。
 メロディ。

「・・・ぅわ、ちょ・・うっそぉ!」

 電子音は季節から大きく外れた、クリスマスソング。普段はバイブレーションにしていることが多くて久々に聞いた定番にメロディだった。
 快い眠りから一発でラビをたたき出した強力な指定音。
 相手の携帯の番号とアドレスを知って登録するときに「記念」と称して相手が指定してきた。
 しぶしぶ目の前でダウンロードして、お互いおそろい。
 滅多にこれで連絡しあわないけど、繋がっているしるしだってふざけた相手は言っていた。
 妙に笑う相手が恥ずかしくて、それ以来サイレントかマナーモードから設定を変えられなかったけど。
 昨日は、もしかし、を期待していて。
 一つぐらい自分に甘くなっても、赦してくれると思った。
 だって誕生日会に独りきりだったんだ。神様だって哀れんで目を瞑ってくれるはず。

 期待して、決して逃さないようにフル音量で幸せな曲を流れるのを夜まで待って、
 料理はアイツに任せる予定だったから買い込んだ食材もずっと前から約束していたチョコレートのホールケーキをどっかの漫画みたいに二人で齧り付くつもりで買い込んだのに、存在を全うされることなく冷蔵庫に鎮座していた。
 待ちくたびれで、睡魔に負けた、本日月曜の朝。
 ラビは携帯電話の電源ボタンを押した。

「・・・もしもし!?」
『おはよう、ラビ』

 見られてもいないのに、つい寝癖を直しながら「ティキ」と呼び返した。
 ラビを起したのはティキからの着信。

「おは、おはようさ」
『良く起きたな。良かった、マナーモードじゃなくて』

 すべて判ったような口調で、ティキの低い声が、少し笑った気がした。
 一緒に眠るときも、何処に行くときもバイブしかならない自分の携帯のことを知っているくせに。
 どうしてマナーモードになっていないか、わかっているくせに。
 ちょっと意地悪く、そんな言い方をする。
 たまたま、と答えた声は恥ずかしさで染まっていた。

『今から、学校これる?』

 ティキは学校の先生だ。そして、ラビは生徒。
 ラビの通う学園は小学部から大学までのエスカレート式の名門だ。
 クリスチャンな校風で、定期的なミサや、ハロウィンパーティなど異色な行事が多いものの、内部の生徒は結構暢気な奴等が多くて。
 面白いのは、学校全体はとっても自由は校風なのに、学外では名門の名前をみなで守ろうと一致団結してとってもお行儀がイイ所だったりする。
 変わり者の多いこの学園に、理事長の親族とかでティキが教師になったのは、去年の春。
 小学部の頃から寮に入って、学園の外に出たことがなかったラビには、何処か新鮮だった。
 見た目もさることながら、上手い調子に生徒にまで気がきいた計らいをするとくれば、ティキが女生徒に的になるのは、時間がかからなかった。
 特に仲が良かったわけじゃない。つながりがあるとすれば、リナリーぐらいで。
 教師の兄を持つリナリーの家にお邪魔したとき、そこにティキ・ミックがいたのだ。

「は?今?」

 慌てて覗いた時計はAM6:00。
 夏至が過ぎてもまだまだ早く朝の訪れる真夏の太陽のせいで、早朝だとはまったく気が付かなかった。

「・・・ちょ、六時って!早いさ!俺寝たの三時間前だってのに!」
『でももう起きたでしょ。おいで、待ってるから』

 一方的に約束をさせられる形になり、再び名前を呼ぼうとした途端通話か切られた。
 自分から寝ずに待っていたとまで墓穴を掘ってしまったのに、意地悪なティキがそこに漬け込むこともしないで早急に。

「・・・なんだって、言うんさー・・・」

 ベットの上で、途方に呉れていると、カチカチと鳴る秒針にわれに返ってベットから飛び降りた。
 何かあるのかもしれない。
 期待は、しちゃいけないけど、でも。
 呼ばれているのは確かなのだ。
 それに、待ちぼうけを喰らった分を怒ってやるにもまずは逢わなきゃいけない。
 ハンガーに掛った白いシャツ、赤いチェックのリボンタイ、黒のハイソックスとリナリーとおろそいの短さのスカートを慌てて着衣して。
 寝不足だったせいで少し目が腫れているから、本当はもっと念入りに化粧したいけど、そうは行かない。
 でもノーメイクなんて晒せない・・・充分晒してるけど…目とリップだけは焦燥に震える手を押さつけてきっりちこなし、幾ら慌てていてもみっともなく茶色のローファーの踵を踏まないようにして最寄り駅まで走りぬいた。
 折角セットした髪の毛は、結局水の泡になるけど。
 高校生になってから独りで暮らすことになったマンションが、寮より遠いから電車にのらなきゃいけないぶん時間がかかってしまうから。
 寝坊のたびにやっぱり寮を出るんじゃなかった、とは思うけど、一人暮らしでよかったことが多すぎて戻る気にはなれない。


 ふたりっきりになれるって、重要だと知ったから。









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