「俊平なんて、嫌い」


嫌い、嫌い、大っ嫌い。そう言ったときの俊平の顔が今でも忘れられない。形のいい眉を少しだけ下げて、何か言いたげな目をして、でも何も言わなくて、ただ悲しそうな顔で微笑んだ。その顔を見た瞬間ひどく後悔して、それでも意地っ張りなわたしは謝ることも否定することもできなくて、ただ俊平の顔から目を背けた。それから程なくして、本当に俊平は行ってしまった。お見送りには、行かなかった。





中学時代、ふくらはぎを故障した俊平は、野球に真剣に打ち込むことをやめた。あんなに野球が大好きだったのにと思ったら悲しかったけれど、それよりも怪我をしたときの俊平の塞ぎこんだ姿を見るほうが何倍も辛かったわたしは、ただそんな俊平を見守ることしかできなかった。それでも楽しそうに野球をする俊平を見ているうちに、いつしかこれで良かったんだと思うようになった。真剣じゃなくても、楽しそうだし、これなら怪我をする心配もなさそうだし。俊平が怪我したら、わたしも辛いし、俊平はきっともっと辛い。

高校に入っても野球部に入部した俊平は、最初は寮には入らなかった。「なまえに会えなくなっちゃうしな」そう言っていたのに、どうやら高校での出会いが俊平を変えてしまったらしい。「俺、やっぱ寮に入ることにした」そう聞いたとき、ああ、やっぱり、そう思った自分がいた。きっとどこかで分かってた、俊平は、いつか本物の野球ともう一度出会って、再びそっち側にいってしまうこと。わかってたのに、受け入れることはできなくて、「また怪我したらどうするの」「心配だよ」「会えなくなっちゃうの寂しいよ」「行かないで」どの言葉も素直に口にすることが出来なくて、代わりに出てきたのは「大嫌い」なんて心にもない言葉だった。俊平はただ悲しそうに微笑んで、行ってしまった。それから一度も、わたしの元へは帰ってこなくなった。


「なまえ、俊平くん最近来ないわね。野球がよっぽど楽しいのね」
「………んー」
「真田さんに聞いたけど、薬師高校、すごいみたいよ。ダークホースなんて言われてて」
「………んー」
「今度、また試合あるみたいだし見に行ってあげなさいよ。一度も見に行かないなんて薄情ね、あんたも」
「……………」


薄情なのは俊平だ。会いにも来ないし、連絡も来ない。意地っ張りなわたしが、連絡できないことなんて俊平が一番よく知ってるくせに。「ほら」お母さんに見せられた次の試合予定らしき文字の羅列に、渋々目を通す。そこそこ大きな試合らしく、高校のグラウンドじゃなく外部の球場でやるらしい。少しだけ、見に行きたい、気もしなくもない、でも、あんなこと言っちゃったし、気まずいし、でも……。「お母さんこの日行けないから代わりに見てきてよ、ね」そう言い募られて、渋々といった様子で頷いてみせる。本当は、野球している俊平の姿、見に行きたい。もっと本当は、一目でもいいから俊平にあいたい。


"選手の交代を、おしらせします"


俊平が登板するかもわからないし。そんな言い訳を自分について、ゆっくり試合会場に向かうと案の定もう試合は始まっていた。というかもう既に3回裏だった。ちょっとゆっくりしすぎたかな、なんて暢気を装って考えて、でも目はすかさずグラウンドの俊平の姿をくまなく探す。そんなとき会場のアナウンスが聞こえてきて、どきりと胸が音を立てた。もしかして、そう思うよりも先に目線はベンチへと移動して、すると目に入ったのはベンチから出てきた選手の姿。「……俊平、」顔は見えないし、見慣れないユニフォームを着て、記憶よりも幾分がっしりとしていて、日にも焼けているけれど、一目見ただけでわかる、俊平だ。帽子で隠れて見えなかった顔が、マウンドに立ってこちらを振り返ったところでやっと見える。試合のときにだけ見せる、挑戦的でイキイキとした表情をした俊平を見て、胸が高鳴る一方で、そんな俊平、見たくなんかなかったと思う自分がいることに、気がついてしまった。

試合は俊平の好投もあって薬師の快勝だった。スタンドに向かって礼をする薬師高校野球部の面々を、ぼーっとどこか上の空で眺める。新しい仲間と笑い合っている俊平。中学時代、わたしも知っている面々と野球をしていた頃とは違う、わたしの入っていけない世界。会いにこなくなった俊平より、連絡をくれない俊平より、今目の前で野球をしている俊平が一番遠い。やだなあ、こんなふうに感じる自分。やだなあ。


「…い!おーい!なまえ!」


どこかから声がすると思ったら、突如呼ばれた自分の名前にびくりとして足を止めた。迷った末連絡できなかったスマホを握りしめて、試合会場を後にする途中。球場の外、試合を見に来た人たちや試合が終わった選手たちで溢れかえる中、その間を縫うようにしてこちらに走ってくる姿。


「……俊平、」
「っはー、よかった間に合って。つーかなんで何も言わずに帰っちゃうの」
「え、いや………見に来るって言ってなかったし、」
「3回裏。俺が丁度マウンドに上がったとき、着いただろ」
「えっ、なんで…」
「通路でボケーっと立ってる姿、目立ってた!」
「えっ嘘!」
「はは!嘘嘘」


ニカっと笑った俊平が、「俺の目はどこにいてもなまえちゃんを見つけちゃう仕様になってるんです」なんてふざけたように付け足した。眩しい、俊平の、笑顔。中学時代より、わたしと一緒にいる時より、よっぽど輝いている。よかったね俊平、大好きな野球ができて、大事な仲間ができたんだね。言わなきゃいけないのに、本心な筈なのに、言葉は喉に突っかかったように引っかかって出てこない。


「つーか、マジで。言えよな、見に来るなら」
「……ごめんね、黙って勝手に来たりして」
「いやそういうことじゃなくてさ。ほら、知ってた方が色々違うじゃん、モチベーションとか、色々」
「………」
「でも見に来てくれたことは素直に嬉しい。ありがとな」


俊平の分厚い手の平がずしりと頭の上にのる。微かに土ボコリの匂いがした。俊平の、頑張りの証。少し汚れた頬も、額に光る汗も、全部、全部、そう。
俊平の野球を応援できない自分は嫌い。最初はたしかに俊平の怪我の心配が大きかったはずなのに、今では全く別の意味で俊平が野球に打ち込むのが嫌だと思う自分がいる。応援したいのに、応援しなきゃいけないのに、応援してたはずなのに、こんな気持ち、おかしいよ。


「俊平、」
「ん?」
「……別れよっか」


きっと俊平も同じ気持ち。大嫌いなんて言って、高校生活すべてを大好きな野球に捧げる選択をした俊平を笑顔で送り出してあげられない時点でわたしは彼女失格だ。連絡が来なくなったのが何よりの証拠で。それでも優しい俊平はきっとすぐには別れを切り出さないだろうから、せめて最後は、わたしが言うね。


「…………、嫌。ぜってー別れない」
「、え?」
「なまえを納得させられるくらい結果出すからさ、もうちょっと時間くれよ」
「?、え、えっと、」
「お前なんかが真剣に野球やったってって思うだろうけど、ぜってー結果出してみせるからさ、だから、」
「ちょっ、ちょっと待って!……別れたくないって、俊平は、…別れたいんじゃない、の?」
「は、俺?なんで俺?」
「だってわたしあの日俊平に酷いこと言ったし、……俊平も連絡くれなくなったし、」
「…あーっと、それは、なんつーか……なまえのこと尊重しないで野球を選んだくせに、それなりの結果出すまではカッコ悪くて連絡出来ねーよな、とか、」
「…………」
「監督が割と頭おかしくてさ、練習めっちゃキツイからなまえの声聞きたくなるけどそれでなまえに癒し求めんのはちげーよな、とか……」
「…………」


珍しく歯切れの悪い俊平が、地面に視線を逸らして頬をかいた。なんだ、そんなの。そんなの、むしろ嬉しいのに。カッコ悪い俊平の話聞きたいよ、遠くに行き過ぎてないことを実感して安心する。俊平の毎日の練習の話だって聞きたいよ、癒しになんてなれるかわかんないけど、気の利いた言葉なんて返せないけど、話ならいくらでも聞くよ、聞きたいよ、聞かせてよ。「……別れるなんて、言うなよ」色んな思いをこめて唇を噛みしめて、俊平の顔をじっと見つめていると俊平が少し弱々しい声でそんなことを言う。そんなの、そんなの、わたしのほうが。


「………わたしも、別れたくない」


俊平の野球してる姿、わたしには誰よりも輝いてみえるよ、だいすきだよ、心の底から応援したいよ、その気持ちはほんとうだよ。
それでも、俊平の周りにわたしの知らない新しい世界ができるのが、俊平がそこで輝くのが、寂しいなんて思ってしまう悪い彼女だけど、そんなわたしをきみは許してくれますか。

ずっと悲しくさせててね
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