愛と明暗

戦で家を失って生きていけなくなる人間は沢山いる。彼女もその一人であり、僕と出会わなければおそらく彼女は餓死していたと思われる。どうして彼女と暮らし始めたのかよく覚えていない。たぶん、彼女が一人で死なんとしているのを見て、心のどこかで共感したせいかも知れない。
彼女は死というものを客観視できる女で、僕がたまたま道端で行き倒れた彼女を見かけた時も、彼女は「ああ、私、もうすぐ死ぬのね」とでも言いたげな瞳をしていた。その達観した目に見つめられた僕は、久々に、自分の中で人情が芽生えるのを感じたのだ。

僕にとって人情なんてものは久しく忘れ去られた概念だった。なぜなら僕は、かつて天下人に生家を滅ぼされ、家族の屍と敵兵の死体が溢れかえる地獄をたった一人で生き延びて以来、浮世に絶望してしまったから。
城持ちの家に生まれた僕も、今や落魄の身。自分の名も、顔も、身分も、全てを捨て、心の奥底に半恒久的な諦念と非道な感性を抱く人非人になった僕は、もう誰のことも愛せないつもりでいたし、誰かと絆を育むことなく孤独なうちにさっさと死んでしまいたいと常々思っていた。
無差別に人を斬って歩きながら、いつか僕よりも強い剣豪に出会ってこの甲斐ない命を斬り殺してもらおうと、そんなことばかり考える虚無の毎日。
けれど、そんな僕でさえ、孤独に死を受け入れる彼女の姿には憐れみを感じた。まるで昔の僕みたいだと思った。独りぼっちで可哀想だったから拾ってやった。女の世話なんてしても、僕に利益はないとわかっていたのに。

気づけば彼女は僕の生活の一部になっていた。
朝起きると、彼女の頑是無い笑顔がおはようと囁き僕を魅了する。また、日が暮れてから手ぐしで優艶に髪を梳く彼女の姿はまるで月の住人のように透明で魅惑的だ。
女の嬌態や嬌羞は苦手だったが、彼女にはそういった卑しさがない。いつも湧き水のように澄んだ態度で僕に接してくる。
彼女は僕を命の恩人として大層慕っているらしかったが、かと言って、自分が生きていることに感謝しているわけではないようだった。その証拠に彼女が「生きたい」と口にしたことは一度もなく、そのかわり彼女はいつもこう言うのだ。「ねぇ小次郎。私、あなたのそばにいたいわ。他には何もいらないから」
そうして真っ直ぐに熱い視線を向けてくる時の彼女のいじらしさは言葉にできない。健気で一途で小憎らしいほど可愛い。人を斬るのが僕の趣味だけれど、彼女を斬ってみたいと思ったことは、未だ一度もない。それほどに、彼女は触れがたい存在だった。

□□□

そんな彼女と暮らすうちに、僕はついに僕を殺してくれそうな豪傑に出会った。それは宮本武蔵という粗暴な男だった。
彼は人の命を軽んじる僕によく説教を垂れてくる嫌な奴だったが、それでも僕にとっては救いと成り得る存在だったので、僕は彼を見つけ出した時、本当に嬉しかったし、やっと死ねると思うと、彼と斬り合う日が楽しみで仕方なかった。

武蔵は僕を殺したくないと言い、決闘を申し込んでも悉く断ってくる。そうしてつれない武蔵に斬り合いを挑み続けるうちに、だいぶ月日が過ぎ、巡る季節の中で、僕は次第に疑問を抱くようになった。僕が死んだら彼女はどうなるんだろうか、と。
自分の命なんて毛ほども惜しくないが、彼女を置いていくのは惜しい。やっと僕のことを殺してくれそうな男を見つけたのに、心が晴れない。気がかりだ。か弱い彼女はとても一人では生きていけない。いっそ誰か他の者に託そうか。……いや、そんなの御免だ。僕以外の……誰かしら新しい男に保護され、可愛がられて、平穏に生きていく彼女の姿なんて、想像するだけで腸が煮えくり返りそう。かと言って無責任に捨て置くわけにもいかないし、はて困ったものだなぁ……と、焦慮にかられていた僕は、懊悩煩悶の末、ある日突然、閃いたのだった。
「ああそうか。僕が彼女を殺してから死ねばいいんだ!」
この考えに至るや否や、僕はわけもなく清々しい気分になった。こんな簡単なことだったのになぜ今まで気づかなかったんだろう、と失笑する。
彼女の始末を決めてしまうと、それまで胸中に渦巻いていた不安が跡形もなく消え去って心が一気に軽くなり、楽しみだった武蔵との決闘がいやましに待ち遠しく感ぜられた。
そうして僕はさっそく武蔵を説得し、剣豪として正々堂々斬り合う約束を取り付けると、決闘の前日に彼女を殺そうと決めた。

□□□

いよいよその日が来ると、僕は寝入りばなの彼女に向かって告げた。
「明日、武蔵と決闘の約束をしたんだ」
すると彼女はちょびっと悲しそうに俯き、本音を隠した嘘笑いを浮かべて答えた。
「良かったね」
それがまた言葉にできないくらいいじらしい笑みであったから、僕は思わずうっとり見とれてしまって、彼女がぐっすり眠りこけるのを待っている最中も、「女の首は手のひらで圧迫するとどのくらい簡単に潰れるのか」とか、「彼女の白い肌から真っ赤な血が溢れ出る光景はどんなに綺麗だろう」とか、そんなことばかり考えていた。

□□□

結論から言う。僕は彼女を殺せなかった。
青白い月影に照らされる彼女の寝顔を眺め、その首に手のひらを押し当てた瞬間、その温かさに心が竦んだ。この美しい花を僕の手で散らすなんてとてもできなかった。
……僕が誰かに殺されても、彼女が独りで野垂れ死にしても、きっと僕らはまた、どんな形であれ転生し、再会できるだろう。けれどもし、僕がこの手で彼女を殺したら、僕はもう永遠に彼女と出会えないような気がする……。
そんな予感が心中を掠めた瞬間、僕を突き動かしていた狂熱がサァッと冷めていくのを感じた。怖くなった僕は彼女の首からパッと手を離した。彼女が小さく唸って寝返りをうった。僕は自分の手のひらを見つめ、歯噛みし、黙りこくっていた。

更けていく朧夜。月光に浮かび上がる彼女の顔の陰影。仄かにぬくい頬。紅い唇。それらが僕の心にじりじりと未練を焼きつけている。
生きる価値もない僕ごときに、彼女を愛でる資格はない。けれど、どこかの誰かに愛でられる彼女なんて見なくない。僕の前で枯れ果てた彼女の死体など、言語道断。もう僕はこんな救いようのない無常の世で生きていたくない。それでも永遠に彼女のそばに居たい。いつまでも僕だけの花であって欲しい。そんなの無理だってわかってるのに。
……ああ。生きるって、なんて苦しいんだろう。

□□□

翌朝、武蔵と決闘すべく宿を出た時、送り出す彼女がなんの前触れもなくフッと笑った。三月に咲く桜みたいに、ふんわり優しく、儚く。まるで自身が散りゆく運命を誇っているかのように。
大儀そうに口を開いた彼女は静かに目を細め、鈴の音みたいに透き通った声で囁いた。
「あなた……私を愛してくれていたのね」
彼女が放ったその片言半句の意味も、意図も、僕にはよくわからなかったけれど、ただ一つだけ確信できたのは、昨夜の出来事がすべて情愛の上に成り立っていたということ。
「なんだ、起きていたんじゃないか。意地が悪いな」と思い思い、僕は彼女に向かって無言で微笑んだ。きっと彼女も、僕がその細い首を絞めずに手を離した瞬間、落胆したのだろう。或いは、「弱虫め」と謗ったかも知れない。

彼女を残して宿をあとにした僕は、武蔵の元へ向かいながら、今更になって理解した。僕の心も、彼女の心も、殺したい気持ちも殺されたい気持ちも、生きたい気持ちも死にたい気持ちも、相克の全てが情によって構成されているのだと。
死への希求だとか、愛への期待だとか、そういった何かしらの執着が僕らを苦しめ、五道に縛りつけるのだ。

僕が死んだら、きっと彼女も全てを捨てて、とこしえの眠りにつくのだと思う。そしたら僕らはきっとまた出会えるだろう。仮令どんな姿になったとしても。もし彼女が桜に成ったら、僕は美しく咲いて枯れる彼女を永久に眺める春風に成るし、もし彼女が三日月に成ったら、僕は輝く彼女を包む雲に成ってみせる。もう人間でいることには疲れた。終わりのない戦も、血の上に築かれる泰平も、全てどうでもいい。ただ二人で、静かに、争いを知らず生きてみたい。はるけき静謐の地で。
それがもし叶うなら、ちゃんと口に出して伝えたいのだ。「きみのこと、愛していたのさ」って。
そしたら彼女も言ってくれるだろう。いつもみたいに、純粋無垢な笑みで。「私もあなたのこと、愛してるのよ」って。

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