架空の

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「なにお前、まだいたの」


目を丸くして呟かれた一言に、悔しくて唇を噛む。要領悪くて、仕事遅くて、すみませんね。可愛げの欠片もない、八つ当たりでしかない苦々しい物言いは、どうやら知らない間に声に出ていたようで、「被害妄想半端ねぇな」と御幸さんがケラケラと笑う。被害妄想でもなんでもない、本当のことだ。現に、御幸さんにかかればこんな仕事、定時で終わるような量なのだ。わかってる。わたしの要領の問題だ。わかってるのに、終わりの見えない目の前の仕事に泣きたくなってくる。仕事を振ってきた先輩に心の中で何度も悪態を吐いて、八つ当たりをする。パソコンの画面の見過ぎで乾いてきた目を何度しばたいても、目の前の仕事は消えない。現実は変わらない。


「さて。俺そろそろ帰るけど」
「おつかれさまで〜す」
「お前まだかかんの?」
「……」
「おー睨むな睨むな、被害妄想だっつーの。責めてんじゃなくて純粋に心配してんの、俺は」


どうどうと宥めるように、降参のポーズで両手を顔の横に掲げて苦笑いをする御幸さんを品定めするように、じっとりした視線を送る。そのはずだったのに、残業中に限って稀にお目にかかれる着崩されたスーツ姿に気が付いて、不本意ながらすぐに目を逸らした。なんだか負けた気分。緩められたネクタイの首元から覗く喉仏に、肘までたくし上げられたワイシャツから覗く前腕の筋。御幸さんのふとした仕草は、目に毒だ。「明日もあるんだし、ほどほどにしとけよ」「……」「返事」「…へーい」「ぶは、かわいくねー」だから、うっかり好きになってしまわないように幾重もの予防線を張る。


「お先」
「はい、おつかれさまです」
「お前ももう帰れよ?」
「わかってますって。保護者ですか」
「後輩の体調管理も先輩の仕事だろ」
「間に合ってまーす」
「はっはっは、お前なあ」
「あとちょっとしたら帰りますから。大丈夫です」
「…ん。おつかれ」
「おつかれさまです」


御幸さんもいなくなって、一人になったオフィスは静かだ。本当は、もう上がろうと思っていたところだった。だから、御幸さんと一緒に上がってもよかった。でも、そうしたら駅までの道のりを共にすることになるわけで、それは避けたかった。それも全部、後で自分が辛くならないための、予防線。日付はもうすぐ変わろうとしていて、ぐぐぐ、と凝り固まった体をほぐすように伸びをする。回らなくなってきた頭にため息をついて、パソコンを閉じた。明日も残業だなあ。

帰り際に、御幸さんのデスクの上に寂しく鎮座したシュミの悪い置物を指の先でそっとなぞる。後輩に押し付けられた、と本人はいつも苦々しい顔をして話すけれど、実はシュミの悪いそれを結構気に入っているのを知っている。性格が悪いとか、いけ好かないとか、遠巻きに御幸さんを嫌厭する人は多いけれど、知ってしまえば不器用なだけで、どんなに口が悪くたって、本当は優しい人なのだと知っている人も御幸さんの周りにはたくさんいる。慕われている、誰よりも。当然、わたしも。そう、御幸さんは分かりづらいだけで、本当は優しい人だった。


「えっ、」
「おう、おせーよ」
「な、なんでいるんですか」
「雨、降ってたから」


だらだらとした足取りでゲートをくぐってロビーに出ると、15分前にオフィスを出たはずの姿がそこにはあって。わたしの姿に気付いた御幸さんが壁にもたれていた姿勢を起こす。驚きのあまりその場に立ち尽くしているわたしの目の前まで歩み寄って来てから、御幸さんは窓の外を顎でしゃくった。本当だ。どうやら外は雨が降っているようで、降水確率20%を叩き出した今朝の天気予報は見事に外れたようだ。嫌だなあ、雨。しかも結構な本降りだ。そんな風にげんなりする一方で、雨が降ってるから、という御幸さんの返答をいまさらながら疑問に思う。雨が降ってるから、なんで。顔に出ていたのか、御幸さんが続けて口を開く。


「傘立ての傘、俺のが最後だったから」


お前、傘持ってねーんじゃねぇかと思って。御幸さんの言葉はわたしの疑問に対して的確に答えを返すものだったかもしれないけれど、到底合点がいくものではなくて、思わず言葉を失った。雨が降ってたから?傘持ってないと思ったから?それだけで、待っててくれてたって、こと?仕事が終わって先に上がったのに。自分だって、疲れてるのに。「風邪ひかれても、困るしな」照れ隠しのようにぶっきらぼうに付け加えられた一言にさえ、嬉しくなってしまう。
このひとは、――。どんなに目を逸らそうとしたって、どんなに気付かないフリしようとしたって、自然な仕草でこういうことをやってのけてしまう。このひとは、そういうひとだ。そうやって、色んな女の子をいとも簡単に虜にしてしまう。このひとは、そういう、ずるくてどうしようもなく、格好いいひとなのだ。


「…いつ出てくるかもわかんないのに、バカですか」
「バカはお前だ、バカ。梅雨だってのに傘持ってないなんてよー、手のかかる後輩持って大変だわ俺も」
「……」
「はは、無視か。おー、結構降ってんな」


肩を並べて雨の中に足を踏み出してから数分で、パンプスの先が水を吸って爪先を濡らす。それでも、わたしの右肩はちっとも濡れない。たぶん、御幸さんの左肩は雨を受けて濡れてしまっているのだろう。少し高い位置にある御幸さんの肩は見えないし、過去に御幸さんと相合傘をして歩いた経験があるわけでもないから確かなことはわからないけれど、たぶん、きっと。御幸さんはそういうことをするひとだ。このひとは、そういうひとなのだ。このひとのことが、わたしは。ほんとうは、もう随分前から、――。


「御幸さん、」


今言わないといけない気がした。明日も明後日も、その先もずっと会社で顔を合わせるけれど、今言わないといけない気がした。いとも簡単に虜にされた無数の女の子の一人でしかないけれど。御幸さんにとって、いとも簡単に虜にしてしまった無数の女の子の一人でしかないのだろうけど。なんの前触れもなく立ち止まったわたしに気付いた御幸さんが、瞬時に反応してわたしを雨から庇うように傘を傾ける。野球部で割とすごくすごい選手だったらしい御幸さんは、運動神経もいいのだろう。その頃の御幸さんをわたしは知らないし、ただの先輩後輩という関係では知らない一面のほうが寧ろ多い。もっと知りたいと思う。知る権利が欲しいと思う。向き合ったことでやっと見えた御幸さんの肩は、やはり薄いブルーのシャツが色濃くなっていて、濡れた生地が肩に張り付いていた。御幸さんがダウンしたほうが、チームとしては困るに決まっているのに。晴雨兼用の日傘を忍ばせたバックの取っ手を握りなおして、御幸さんの優しさに漬け込んだ自分の意地の悪さから目を背けるように瞼をぎゅっと閉じた。「御幸さん、わたし、」御幸さんがじわじわと、茶色の瞳を僅かに見開くのが見えたけど、構わず口を開く。もっと驚かせて、もっと困らせることを、これから言うのだ。


「御幸さんのこと、す、っ」


そして、それはもう一瞬の出来事だった。少女漫画でよくある、シチュエーション。キスで言葉を塞ぐっていう、そういう、――よくある、やつだけど。「…っ、な、え、」そんな作り話のような出来事が自分に降りかかったことが信じられなくて、頭が真っ白になって意味のない音ばかり口を突いて出て、思わず片手で口元を覆う。唇を離した後もそのままの距離で静かにわたしの顔を覗き込んでいた御幸さんが、身長差を埋めるために曲げていた腰を起こしてすっと離れていく。手のひらの下で、確かに残る御幸さんの唇の感触と、御幸さんの微かな残り香。いつのまにか腕を引かれていたことにも、その手のひらの温もりにさえも、いまさら気付く。御幸さんと、あの御幸さんと、キスしてしまった。


「…お前さ、ここでいきなり言おうとするの、反則」


キスされたこと、ついでに、告白を遮られてしまったことで呆然としつつも、低く響いた御幸さんの言葉が辛うじて耳に届く。その言葉で、回っていない頭がひとつの答えを、弾き出す。

――御幸さんは、わたしがなに言おうとしてたか、分かってたんだ。分かってて、言わせなかったんだ。無理矢理、あんな無茶苦茶な、方法で。


「…御幸さん、もしかして、ずっと気付いてたんですか?わたしの気持ち」
「はは、いまさらだな〜。むしろバレてないと思ってたの」
「気付いてて、知らんぷり、してたんですか」
「人聞き悪りーな。…ま、そうだけど」


「ひどい、」ともごもごと呟くわたしに、御幸さんは「なんとでも」と不敵に笑う。そうだ、このひとは、そういうひとだ。頭がきれて、洞察力があって、人の気持ちの機微に敏感で。気付いていない、わけがなかった。このひとは、そういうひとなのだ。

告白しようとしたのに、言わせてもらえなかった。告白だってわかってたくせに、遮られてしまった。これは、普通に考えれば、良い兆候ではない。でも、それでも、ずっと憧れてた人にこんなことされて、舞い上がって茹で上がった頭で、どうしようもなく自分に都合よく、楽観的に、解釈するのだとしたら――。


「……あの、違ってたらごめんなさいなんですけど、」
「うん」
「もし違ってたら、笑い飛ばしてほしいんですけど、」
「おう」
「………」
「ふは、ここで黙んのな。さっきまであんな威勢良かったくせに」


ごくりと生唾を飲んでから、意を決して口を開く。「御幸さんって、……御幸さんも、もしかして――」どうしようもなく楽観的で、どうしようもなく身の程知らずな解釈だって、わかってたけれど。御幸さんがどうしようもなく優しげな表情で先を促すものだから。

雨の音でかき消されそうなか細さで続けた言葉を聞いた御幸さんは、満足げに口角を上げる。


「さあ、どうだろうな」


御幸さんの大きな手のひらが頭に乗って、くしゃりと髪を撫でたあと、それからゆっくりと輪郭をなぞるようにして頬へと降りて行く。それが合図になって、どちらからともなく目を閉じた。

多分、それがなによりの、答えだった。

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