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星の見えない、月明かりだけがいやに目立つ奇妙な夜のことだった。



「ねえ、ボス」

喪服とも喚べるほど深い闇色の装束を纏う女が一人。椅子に腰掛け、珍しく足を投げ出さない世間一般で言う普通の態勢で座っていたXANXUSに声をかけた。窓に視線を向け、声をかけられたというのにぴくりとも反応しない彼は睨み殺すと言わんばかりに月をただひたすらに見つめていた。見つめるという穏やかな表現とは真逆な、眉間に寄せられた深いシワを見るかぎりそれは睨み付けていると言ったほうが正論だろう。何の反応もないXANXUSの後ろ姿を、彼女は黙ったまま見つめていた。

XANXUSの寝室であるこの部屋では、普段とは違う異質な空気が漂っていた。それを醸し出すのは言わずもがな部屋の主なのだが、椅子ごと彼女に背を向き窓だけに視線をやっているXANXUSは言葉を発する気配すら見せない。──どうしたものか。話し掛けても反応を見せないといった彼の態度は日常化しているので特別気にすることではない。だが、それでも今は反応を示してもらいたい理由が彼女にはあった。闇に紛れる隊服の、衣擦れの音が小さく響く。数歩歩み寄り彼に近づいた女は、彼の瞳を覗いたあとその視線を窓に映した。煌びやかな月光が瞳に映る。眉根を下げ寂しそうな表情をつくった。彼女の空気がかわったことにいち早く気付いた彼は、微弱な舌打ちを鳴らしたあと静かに口を開いた。視線は今だ、月を睨み付けている。

「…何しに来た」

声をかけられるとは期待していなかったため彼女は一瞬、驚愕で瞼を瞬いた。自身に向けられた言葉だと気付き、刹那、月に移していた神経をすべてXANXUSへ向ける。気付いてくれた。まるで自分の訴えが彼に伝わり、それを考慮してくれたかのようで嬉しさが込み上げる。

「ただ、逢いたくなったの」

「……ハッ」

鼻で笑い飛ばしながらも、まんざらでも無さそうな彼の顔を見て彼女は小さく微笑んだ。XANXUSの赤い瞳に月光が反射し、生まれ持った威厳がさらに増しているように感じる。物静かな闇の空間に彼がいるだけで、安堵する自身の心に嬉しさを感じながらも小さく瞳を伏せた。

XANXUSの首もとに腕を回し、彼女は後ろから彼の頭を抱えるように抱き締めた。彼は何の反応も見せず、拒否の意も出しはしない。項部分に顔を埋め、何か思い詰めた表情をしながら彼女は腕に力を込める。何の反応も見せない彼に焦燥感を感じながら、それでも拒否されないことに安堵感も感じていた。矛盾した想いが、ないまぜになり彼女の瞳を潤ませる。遣る瀬ない情に振り回されている自身を実感し、女はやはり腕に力を込めた。

「……手、貸してくれませんか」

顔を伏せたまま懇願する。さすがに無理だよな、と考えるがまま、自分から言ったにもかかわらず期待していない自分に彼女は小さく苦笑した。

「おい」

声をかけられ、咄嗟に顔を上げる。驚いたことに、顔前にはゴツゴツとし引き締まった大きな掌が広がっていて、一瞬理解できなかった彼女はまたもや瞼を瞬いた。

「いらねぇのか」

「いえっ……ありがとうございます」

左手は彼の首もとにゆるく回したまま、右手で差し出された掌を握る。重なる瞬間微かにぴくりと動いた彼は、それだけで握り返すという行動は起こさなかった。

一度も月から視線を外さないXANXUSは実に奇妙なものだった。まるで、月以外は見てはいけないと思っているかのように微動だにしない。それで良いのだと、彼女は己に言い聞かせた。彼の瞳に映されてはいけない。彼は私を見てはいけない。念じれば念じるほど感じる胸の痛みに、心は無事なのか、と女は小さく微笑んだ。

「ボス……私、今幸せです」

「…」

「こんなこと、今まで出来なかったから…」

「ハッ、腰抜けが」

「…そうかもしれませんね」

握っていた掌を数秒見つめ、次はXANXUSに目を向ける。相変わらずの仏頂面は些かゆるんでいた。しかしそれでも、何だか言い様の無い感情も溢れているように感じる。彼女は彼を見つめ続けた。珍しく拒否しないことから、彼も何かを感じているのだろう。複雑な心情に、握った掌はそのままにし、頭を抱き締めていた腕を外した。

「…XANXUS様」

ぴくり、彼が小さく反応した。初めて名を口にした彼女に、多少面食らった様子だった。だがそれも一瞬の変化に過ぎず、彼の視線も窓の外から外れはしない。

少しだけ躊躇ったあと、彼女はまた窓に目を向けた。今度は月を見るわけではなく、窓そのものに視点を変える。そこに映るのは、変わることの無い威厳を纏った男の座っている姿、ただ一人。そう、一人。それだけだった。

「…XANXUS様」

──私を、忘れないでください。





月に向けていた意識を外し、XANXUSはやっとのこと背後を振り向いた。そこには静寂に包まれた薄暗い室内が広がっているだけで、息づくものは彼以外なにも無い。

「……カスが」

耳元で囁かれた、心地いいアルトに近い彼女の言葉が頭に響く。既にここにはない姿。今後見ることすら叶わない、女。
感触はなかった。匂いすら、何も。

誰も握ることの無い、ただ宙に浮かんでいるだけの己の掌を睨み付け、小さく唇を噛み締めた。

「…忘れるわけねぇだろ」

小さく呟いた声とともに、またもや意識を月に向ける。彼女のように輝き続ける月を。

握り締めた掌は、空気を掴んだだけだった。


2009.4.12

第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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