dream | ナノ
『日常』という言葉に意味を当てはめるならば、それは個人個人異なり規定の基準が定まっているわけではない言葉だと言えるだろう。
他人が見たなら非日常として受け取る事象も、またとある他人からすれば毎日のように過ぎる『当たり前』の事としてそれは日常に組み込まれている事象かもしれない。
個人の見解により日常とは移り変わり、最初は非日常だったことが慣れという感覚によって日常化してしまう場合もある。
自身の日常の移り変わり真っ只中に存在する名前は、そんな移り変わりすら気にも止めないまま例に漏れず『慣れ』によってその日々を享受していた。
慣れは恐ろしい、とはこの事かもしれない。
「名字」
「ん?…あー、はいよ。わかった」
「わりぃ」
「ん、行ってらー」
七月中旬、暑さが滲み蝉も鳴き出すだろうかとみられる時期。
鬱陶しい梅雨も過ぎ去り晴天が広がる空の下、放課後になり伴に帰ろうと連れ立っていた二人は言葉少なに帰路の別れを選択していた。
会話の擦れ違いも少なくなり、むしろ今のように大抵のことなら察することが出来るようになったのも慣れの賜物と言える。
そんな二人は帰りがてらマックに寄ろうかロッテにするかを話し合っていたところ、目を凝らせば漸く見える程度離れた場所に鎮座する集団を見つけてしまいその予定は覆される事となってしまった。
物騒な雰囲気に見た目と凶器をぶら下げた輩が、静雄を見付けたのかこちらに顔を向けたならザワッと騒ぎだしたので目的はわかりやすいほど明らか。
名前自身はまったく平気なのだが、彼女が巻き込まれるのを良しとしない静雄はそんな相手の心情も知らず常に彼女をその場から遠ざけていた。
校内では名前が気紛れなためそうでもないが、校外では比較的伴に行動することが日常化してきた二人には慣れたものであり、もはや先に帰れという言葉も出てこない。
心配されるということに慣れていない名前にとってその優しさは新鮮なため彼女も彼の気遣いを優先する。
反論する理由もないため素直に肯定した名前は、一人取り残される道の真ん中で静雄の背中を見送った。
「あんま公共物壊すなよー」
口許に手を当てずれた心配を遠ざかる背中に投げ付ける。
振り返りもせず片手でヒラヒラと無言の返事をした静雄を見ながら、こりゃ無理だなと結論付けた彼女は来た道を再度歩き始めた。
静雄の場合、言葉のない返事は声を認識していても内容が聞こえていない確率が高い。
内容はともかく取り敢えず心配されていることは彼も理解しているため、無言ながらも反応はするが聞こえない以上約束できないので言葉での肯定はしないのだ。
わかりやすく、ある意味律儀なその行動を少しは把握してきた名前は慣れたものだと最早何かを言う気はない。
聞こえないなら仕方ないと、諦めればそれで終わりだった。
「あ、名字さん」
このまま直帰するには早すぎるうえ味気無く、かといって暇を潰せるものも持っていないため学校に戻り図書室で本でも借りようと思案していたところ、名前は前方から声を掛けられた。
明後日の方向を見ながら考え込んでいたのを中断し前方に目を向ければ、そこには来神高校の学ランをきっちりと身に纏い薄い笑みを浮かべた眼鏡の青年がそこに居た。
「ん?…ああなんだ、岸谷か」
「はは、なんか酷いよその反応」
「え、ごめん」
知り合いの青年、岸谷新羅は言葉とは裏腹に気にした体もなく微笑む。
自分とは真逆から来たことで帰る所なのだろうと理解すれば、その相手に名前は謝罪しつつも薄い反応を示した。
――こいつってなんか…なんなんだろうな。
静雄の友人として少し前に関わった人物であり、自分とも普通に接してくれる数少ない貴重な存在。
そんな人物ではあるが、常に笑顔で視界は広いが実際は狭い、そんな形容しがたい妙な印象が残る相手に名前は引っ掛かりを感じていた。
言葉に出来ない違和感だが、モヤモヤとしてどこか気持ち悪い。
――いやこいつが気持ち悪い訳じゃないけどさ。
誰にしているのかわからない言い訳を心で溢しつつ、立ち止まったままの相手を見上げる。
この青年の事も一方的ではあるが知らないわけではなく、知っているからこそ感じる違和感の正体が名前にはわからなかった。
「あんたもう帰んの?」
「ああ、君は?静雄と一緒じゃないところを見ると、彼はまた取り込み中かな」
「うん。あ、てか巻き込まれたくないなら迂回した方が良いよ。移動したかもしんないけど多分この先で暴れてっから」
「近い?」
「割りと近いかも」
「長居は恐れ、早く離れよう」
「うん」
成り行きだが肩を並べて歩き出す。
他に擦れ違う生徒が居ない今、時刻は下校時間が遠の前に過ぎ去っていることを無言で二人に伝えていた。
普段の行動は知らないが、彼がこの時間までいったい何をしていたのかと小さな疑問が彼女の頭に浮かぶ。
浮かんだ疑問は直ぐに解消すれば良いと、特に何も考えず名前は言葉を投げ掛けた。
「あんたいつもこの時間まで残ってんの?」
「え?…ああ、うん。一応部活やってるからね、今日は少し早いくらいさ」
「ふーん」
己から質問したというのに薄い反応で肯定した名前に新羅は苦笑する。
彼女からすれば、なぜこの時間此処に居るのかが疑問なだけなので用事の内容はどうでも良い。
ただ用があったから遅くなっただけであり普段は違う、という応えが返されればそれで納得してしまう。
ポッと浮かんだどうでも良い疑問を簡単な会話で消化すれば、あとは特に興味がない。
好奇心はあるが淡白でいて応え概もない反応を示す名前に、応えた側は彼女らしいと苦笑するしかなかった。
「名字さんて淡白だよね」
「ん?んー…そうでもないけど」
「あ、そうか。放縦不羈って奴かな、興味の対象が極端だし」
「……あれ、バカにされてる?てかそれならあんたも人の事言えねーべ」
「そうだね。別に私は馬鹿にしたわけじゃなく感じたことを言っただけだし、君の言葉も嘘ではないから否定しないよ」
来た道を戻りながらの会話は悠々と時の経過を遅くする。
二人きりの回り道、続く会話はそれほど親しくない者同士だというのに一切の遠慮が見えない。
岸谷新羅という青年がとある異形にしか興味を示さないと一方的に知っている名前は、彼に対する警戒心がまるで存在しなかった。
常にほぼ全ての人に対して警戒を示すような性格では無いが、彼の場合引っ掛かりを感じるだけで警戒する要素がまったくないのが彼女の初対面時からの見解である。
物語の中でも突出していた彼は主人公と伴に特に印象深く、一途な彼の愛は尊敬と伴に憧憬と嫉妬の念を以前から名前に抱かせていた。
名前は前の世界の友人にも親友にも、誰にも言ったことがない願望めいた憧れを心の奥に秘めている。
家族愛とはまた違う、異性間の一途な愛。
恋をしたことが無いわけではなく、愛を告げられた事が無いわけでもない。
一方的な愛を告げられたことはあるが、その相手に自身が愛を傾けたことが無い彼女はその不変の心に憧れを抱いていた。
恋と愛の区別などわからないが、本の虫である彼女はそういった物語や漫画も数多く読破している。
その物語の中でもひどく印象に残っていた人物である隣の存在に、彼女はおくびにも見せないが尊敬の念を抱いていた。
憧憬は文字通り憧れから、嫉妬は欲しいのに自分が持ち得ない心を抱く羨ましさから。
嫉妬のような負の感情が織り混ざり、しかしそれでも尊敬という形の無い感情が大半を締め警戒心の一切を彼女から消し去る。
彼の持ち得る『愛』とは何なのだろうか。
何故そんなにもただ一人を愛せるのか。
その興味と願望が一心に向けられている新羅は、そんな彼女の心情など当たり前だが知る由もない。
――…あ、わかった。
会話を交わしながら彼を尊敬する過程についてぼんやりと思い出していれば、出会った時から感じていた妙な違和感の正体が見付かり名前は深く納得した。
違和感の正体を掴めばなんて事はなく、簡単に納得したそれを確かめるため会話の軌道を瞬時に変える。
どうしようもなく違和感だったのだ、彼の言動が『普通過ぎる』という点が。
「岸谷、あんた好きな女いるんだって?」
「え、なんだい藪から棒に」
「いや、あんたがフッた女の子の友達から聞いてさ、今思い出したから気になって。私恋バナ好きなんだ」
女性特有の突拍子もない話題変換を装いながら、名前はさらっと悪びれもない嘘を吐いた。
実際は彼女にそんな話題を提供する女子どころか知り合いはこの池袋に存在しない。
しかし、彼女と同じく友達が少ない新羅はそれを知る由もないためまったく警戒もなく、むしろあからさまに表情を嬉色に染めあげた。
もしも新羅が誰にも告白されていなかったなら自爆していた所だが、そこは自分の運任せ。
極端に運が悪いと自覚しているだけあり博打ものだったが、今日はついているらしいと名前は内心ニヤリと笑む。
恋バナ好きは嘘ではないため、今から始まるであろう新羅の話に彼女は心を踊らせた。
「うん、そうだよ。とっても好きな女性が居る」
「へえ、本当なんだ。可愛いの?」
「彼女は全てが素晴らしいんだ。花も恥じらう乙女の如く、いやそれ以上に羞月開花、むしろ万物さえ越えて清風明月さ!非の打ち所なんて考えることさえ烏滸がましいと俺は断言できるよ」
「つまり面向不背なわけね」
「その通り!存在そのものが完全無欠、森羅万象彼女の素晴らしさに敵うものは存在しないね」
「すげー」
ニコニコ、ニコニコ。
身振り手振りを駆使し、得意気に豪語する新羅を見ながら名前は機嫌良く相槌を打つ。
――そうだ、これだ。
――これが岸谷新羅だよ。
心の片隅に鎮座していた違和感が消え去り、生き生きとしている男の終わらない語りを楽し気に聞き続ける。
鬱陶しいだろう他人の惚気を否定することなく、むしろ煽るような言葉を掛けながら。
二人の言葉遣いも相成って、そこは些か異様な空間となっているが気にする者は誰も居なかった。