dream | ナノ
俯いたまま込み合っている人波をひたすら進む。
視界に映るのは人、人、人、人の足。
昔から馴染みのあるファストフード店に向かおうと足を運んでいた筈の名前は、ある重大なことを思い出しピタリと道の真ん中で堂々と立ち止まった。
呆けた表情を貼り付けている彼女は、自分の状況を確認するかのように俯いていた顔を上げる。
辺りを窺い見るため緩く視線を左右に流せば、流れる雑踏が目に入り首を緩く傾げた。
「…ふむ、困った」
先程通ったような、通っていないような、曖昧な記憶を浮かべて指先で頬を掻く。
――……迷った。
休日の池袋、酔いそうな人波の中心で名前は立ち竦んでいた。
知らない場所、知らない人。
ろくなことを考えない頭が思考を始め、自分の状況を把握した名前は今の状況に確かな疎外感を感じた。
――こりゃあ、困ったなあ。
あの場を抜け出し一人になりたい一心で名前は歩き続けていたため、実際彼女はファストフード店の場所すら知らない。
咄嗟に出た理由がお腹減ったという自分らしさに多少呆れながら、混乱する頭をそのままに拳をギュッと握り締める。
見知らぬ街並みを眺めながら、名前は呆然と考え込んでいた。
静雄について知りたかったことが案外あっさりわかった瞬間、切望していた筈の全ての事実にも気付いてしまい途方にくれる。
――なんでトリップしてんだろ…。
『全て』の現象に納得した名前が、まず最初にポッと浮かべた言葉は当たり前な疑問だった。
『池袋』『来神高校』『平和島静雄』『イザヤ』
イザヤ、と小さく唇を動かしたところで人とぶつかり小さくよろける。
怪訝な顔をしながら舌打ちをして去っていった人物の後ろ姿を見ながら、ようやく歩行の邪魔になっていると気付いた名前は頼りない足取りでトボトボと往来の中心から移動した。
道の端に寄り、再び俯きながら浮かぶ考えを整理する。
――自分の考えが当たってるなら、あのファーコートは折原臨也。
――じゃあ静雄は……まあ池袋最凶だよな……強いわけだ。
自分の立っているこの場所全て、街並み云々という規模すら越えて自分が迷子になっている事実に名前は気付いた、気付いてしまった。
そしてそれに気付いたなら、考えてしまうのはその理由。
飛んでしまったのだから仕方ないと言ってしまえばそこで終わりなのだが、生憎と名前はそこまでお気楽な性格はしていない。
徹夜明けの朦朧とした意識の時に知ってしまったなら案外簡単に納得して終わったかもしれないが、今の彼女は眠気どころか衝撃的な光景を目撃した衝動で意識がはっきりと覚醒している。
そこで考えこんでしまうのが、様々なネットワークで知識として詰め込んだ情報の数々。
父方の遺伝なのか昔からの環境なのか、本の虫である名前は今まで生きた中で様々な知識を頭に詰め込んでいる。
本のジャンルはまったく関係なく、興味があるものは片っ端から読破しそれを自分の知識として脳に埋め込む作業が彼女は好きだった。
本に限らずネット、雑誌、コラム、テレビ、対話、手紙を初めとした情報の会得は驚くほど簡単にそこらに転がっているため、名前は雑学というものに関して頭は柔らかく視野が広い。
考え始めてしまうと無駄に思考が絡まり合うのはこの知識欲の末詰め込みすぎた知識が溢れるからだろう。
多くの情報を得てしまえば、肯定されていた事象がとある文献では否定されていたりと人の数だけ思考は違うという、見ている世界は主観によりまったく違う世界になりえると雄弁に語っている。
それを受け止めるために視野を広く持ち人の数だけ知識と主観と思考の違いを受け止める名前は、その知識を考えることで自分の考えをまとめなければならないため無駄に混乱することが多かった。
今のこの状況は、その数ある思考の決断の末また新しく産まれた疑問への探求心、欲。
なぜこの世界に自分がいるのか、数年前に詰め込んだ知識を思い返して名前は一つの仮説を立てたようと内心奮起していた。
『シュレティンガーの猫』
『エヴァレットの多重世界論』
『周波数と振動による世界の交わり』
『修正力』
『パラレルワールド』
『理想と現実の相違』
『現実は幻』
数ある世界論は信憑性も皆無だが、自身が陥った状況を考えるとそこは今大した問題ではない。
この世界に自分が存在することにより、知っている世界とはまた別のパラレルワールドに自分がいることを名前はまず始めに理解した。
そこで生まれる疑問はこの世界に居た筈の自分自身について。
『もしも』の数だけ存在するのがパラレルワールドだが、その別の世界に同じ人間が二人存在するということはありえない。
写真など物的証拠があるうえ、家族や友人が変わらず傍にいるのだからこの世界には確かに此処で生きた他の自分がいるはずだ。
しかし、それに成り代わった形で自分自身がここに居るのが不可思議だと感じる
――ん…なんかわかりそうだけど……んー。
――トリップとか多重世界にハマって手当たり次第に資料漁ったのかなり前だからな…。
そこでポッ、と頭に浮かんだのは周波数と振動による自分自身の変化について、という文字。
理想と現実の相違、という言葉をも芋蔓式で思いだし、この世界の自分がどういった考えを持っていたのか容易に想像できた名前は思わず溜め息を吐いた。
別世界の別の自分なのだから考え全てはわからないものの、パラレルワールドと言うものは『私は私』という理論が前提にあるため自分自身が考えそうなことは大抵推測を通り越し断言できるレベルで察しがつく。
その理論を浮かべてしまえばこの世界の自分は大層痛い奴だと彼女は容易に理解できてしまった。
理想と現実の相違とは、簡単に言えば理想や思い込みや夢といったものは自身に強く暗示すれば現実にも反映される、という考えである。
――確か中三くらいの時にそれ読んで…それなら二次元世界行きたいって現実逃避したっけか…。
そんなことが出来るとは蚊程も思っていなかったため一笑したのを名前は覚えている。
しかし、こちらの世界の自分もそうだったのだろうか、馬鹿な話だと一笑できたのだろうか。
Ifの世界で分岐するならば、そこでこちらの自分が本気でそれを実行可能だと暗示した確率は本人からすればかなり高いと言えた。
中三と言えば、暴れていた月日のツケが回ってきたかのように高校受験に向けて猛勉強を開始した時期でもある。
昼夜問わず机にかじりつき、息抜きという現実逃避を繰り返すうちに多少精神状態が狂っていたあの日を思い出せばそれはそれであり得る、と彼女は簡単に納得できた。
それに伴って浮かぶのは周波数と振動による世界の関わりと修正力。
願うだけでトリップ出来るなら結構な人々が誰でも実行出来ていることだろう。
しかし周波数と振動の変化があったなら、推測でしかないが可能な気もしてきて名前は更に項垂れた。
この世に存在する全ての『モノ』は個々固有の周波数と振動を持ち合わせているらしい。
周波数と振動は体内における質量等で度々変化するらしく、その変化の際人と人との結び付き、つまり周波数の共鳴によって対人関係や世界が変化していく、という考えのようだ。
簡単にいうならぼっちの肥満体が痩せたことによって質量が変化、周波数と振動が変わり大した美人でも無いのにモテだしたりするのも共鳴する世界と人が変化するから、という例がある。
―…もしかして、アレか。
名前はこの状態に陥る寸前の現象、衝突しただろうトラックを思いだした。
質量の変化はわからないが、確かに普通に生活していたならまず体験することはないだろう振動は感じたはず。
その時点で自分のグロテスクな想像が浮かぶが、実際は無傷なためそこでまた浮かぶのが世界の修正力だった。
もしかしたら、こちらの世界の他の自分はまた別の世界に飛ばされているのかもしれない。
突拍子もない思考ではあるが、この世界の自分がどこかにトリップした場合こちらには『名字名前』という一人の人間が完全に存在しないことになる。
しかし他者と関わりという名の繋がりがある人間が完全に消え去るということは、小さいながらもその世界の秩序を狂わせるだろう。
そこで働く力が修正力。
デュラハンという妖精や吸血鬼といった、自身の世界では有り得ないことが溢れているこの世界の特性を浮かべればこの世界の違う自分も何らかの形でどこかにトリップ出来たのかもしれない。
しかし世界は死以外ではそのたった一人のイレギュラーな欠員を許さない。
そこで調度周波数と振動が変化した自分がたまたまこちらの世界に合致し、欠員を埋めるための理由で年齢すら変えて飛ばされたのかもしれない。
それが世界の修正力というものだ。
自分がこちらに来たことにより保たれた安定ということならば、自分の世界ではまた違う自分が飛ばされているのかもしれない、もしかしたら死んだことになっているのかもしれない。
自分の世界での常識ならば後者の方が有力な気がして、名前はあーあ、と小さく声を漏らした。
世界の修正力とは、世界の欠員といった特殊性がない限り早々起こるものではないだろう。
この世界でなにかをやらかしたとしても、既にこの世界に食い込んでしまった自分はその時点で『If』の世界を作り出すだけになると彼女は推測する。
もしも自分が死んでいた場合死体などはどうなっているのかと疑問は尽きないが、自身がトリップした寸前も教員室のど真ん中だったということを考えればそこにも何らかの修正力が発生したのだろう。
まさかあんなところで違う自分が急にトリップしたとも思えない。
何が起きるのかわからないこの世界、それに巻き込まれた形の自分。
トラックに跳ねられたところで死んでいただけだろうことを考えると、なんとも言えない気持ちが込み上げ名前は俯いたまま瞼を伏せた。
――…助けられた、ってことかなあ。
理不尽な状況に巻き込まれたことには違いないが、そう考えてしまうと感謝の気持ちすら込み上げる彼女は『死』を恐れていた。
数年前、とある出来事により明確な『死』を実感したことのある彼女はその時初めて『生きたい』という感情にがむしゃらに縋りついた。
その時の恐怖は今まで経験した様々な負の感情すら覆し、彼女に死への恐怖を植え付ける。
名前にとって一番重要なのは、今現在如何なるところだろうと生きているという実感を感じること。
――この世界に助けられたのかもしれない。
この一通りの推測は自分の中にある数少ない知識の中から排出した拙い持論であり、そこに信憑性や正確さは微塵も存在していない。
しかし、名前はそれで良かった。
世界論というものは未だに未知の部分が多い。
名前はただ、自分なりの推測の中で納得がいく答えを導き出せればそれで前に進める。
違うかもしれない、しかしそのれ以上の知識は持ち合わせていないため彼女はその推測を勝手に、そして簡単受け入れた。
随分と考え込んでいた名前は、いつの間にか暮れていた空を見上げて世界を目に映した。
――この、助けてくれた世界で生きていこう。
パラレルワールドの存在を昔から信じている彼女は二次元だからと軽んじた考えはしない。
目の前にいる人々は、確かに此処で生きている。
三次元として改めて実感した池袋の街並みは、先程まで見ていた意識とは違い確かな『現実』を彼女に知らしめていた。
視界が開いた気がして、夢心地だった感覚が霧散していく。
非現実な現実を受け入れた彼女は、自身が薄く笑んでいることに気付かなかった。
着実に、しかし確実に。
何処かが壊れていく皹の音すら、彼女には何も聞こえてはいなかった。