dream | ナノ

しーずんってアダ名も良くない?とニシシ笑いをしている女を静雄は不思議な感覚を覚えながら見つめる。
――本当になんか…変な奴。
昨日の今日なので昼前には来たものの、屋上に行く気にはなれず久々に教室で昼食のパンを食べていた矢先に現れた女、名字名前。
不自然なほど静まり返っている教室もなんのその、まったく気にしない様子で笑うその姿に静雄は自分の中で妙な気持ちが沸き出ていることに気付いた。
正直彼女とこんなに早く遭遇するとは考えてもいなかったし、こうも気軽に声を掛けてくるとも思っていなかった。
疑心暗鬼で普段なら初対面の人にはやらないだろう態度をした自覚があったため、この余りの気軽さは拍子抜けする何かがある。
――別に普通…なんだよな。
自分のことを知らないというだけで、あれだけ渇望していた『普通の会話』というものが教室内で出来ていることに彼は戸惑いを感じていた。
大抵教室という空間の中で自分に話しかけてくる人物は限られた数人であり、内容がアブノーマルな輩が多いため今の状態が新鮮すぎて違和感だと感じてしまう。
男ならまだこの違和感も少なかったかもしれないが、彼の目の前にいる名前は間違いなく女。
長いハネッ気味な髪に小柄な体格、身長は静雄の肩より若干下で、彼の知る所ではないが名前の身体の成長は既に中三辺りですっかり発育と共に出来上がっていた。
着痩せするタイプなので服の上からでは目立たないが、小学校中学年辺りから成長し始めた身体の凹凸はかなりの発育だと見受けられる。
日本人にしては少し高めの筋の通った鼻は、覚醒している時はパッチリと開かれる大きな目と共に顔の作りを良い意味で際立たせる。
長い睫毛に厚めの唇は見る人が見ればどこか扇情的だと感じるかもしれない。
中身は残念としか言いようがないが、見た目はどこをどう見ても女としか言い様がない。
名前は外見だけで言えば、実に女らしい女だった。
見た目を気にした体は無いが、下手をすれば小学生以来、短い挨拶や事務的な物以外での女子との長い会話に静雄が不自然さを感じてしまうのは無理もない。
昼食が終わり食後のデザートという形で鞄からコンビニの袋を取り出し駄菓子を食べ始めた名前をなんとなしに見る。
異性という意識もあるが、それよりも自分とはまったく違う不思議な生物を見る感覚の方が強い。
頬杖を付きながらその様子を見つめていれば、静雄のぼんやりとした視線に気付いた名前は小さく首を傾げた。

「ん?しーずんも食う?」

「食う。…てかしーずんはやめろ」

いっぱいあるから好きなの取って良いよ、と笑いながら差し出された袋を掴む。
明らかに名前で遊ばれている気がしたが、それ以上訂正するのを静雄はやめた。
今は何故か気分が良いし、名前の言葉は不思議と気にならない。
口調は気になるが言葉で緩和されている気がするのも、これまた勘違いの成せる技なのだろうか。

「しーずんはダメかあ、好きなキャラと似た名前だしピッタシだと思ったけど」

「キャラ?」

「少女漫画のキャラだけどねー……他に浮かばないからシズオで良いか」

生憎と漫画など言われたところで知りも興味もないのだが、変な渾名をつけられる心配が無くなったためその事についてだけ静雄はほっと息を吐いた。
どうやら多少空気は読めるらしい名前に、このままなら自分がキレる可能性はもしや少ないかもしれないという考えが頭を過る。
――いや、いやいやいや待てよ、例外が居るからそりゃ無理か。
名前を出すことさえ不快に感じる人物を思い出してしまい、静雄の蟀谷がビキッと引き吊った。
名前は急に青筋を浮かべた目の前の男に訝しげな視線を向ける。
実際に青筋が浮かぶ姿など生で見たのは初めてなのですげえ、と若干感動してしまっていたが、彼が怒りを感じた理由がわからない以上そう呑気にしている場合ではない。
――あれ…さっき名前呼び良いって言ってなかったっけ…それとも少女漫画嫌いなのか…?
無言でコンビニの袋を握り締めている男は、客観的にも絵面的にも、雰囲気的にも異常としか言い様がない。
何もない背後がまるで黒く渦巻いてるような幻覚が見えそうで、嫌な予感は統べなく当たると自負した危機回避センサー、所謂勘が名前に逃げろと警告している。
――おうふ。
――なんかわからんが、こりゃ確かに勝てる気がしねえ。
昔は様々な修羅場を潜り抜けてきた名前の身体に冷や汗が伝った。
優しい人がキレると怖い、という有名な話を思い出したがそれとはまた次元が違う気がして彼女ははて、と自分の顎に手を添える。
急に怒りだしたのは驚いたが、怒鳴るわけでもなく一点を睨みながらブツブツとなにか呟いている静雄は端から見れば不気味な印象の方が強い。
そんな彼の異様に張り詰めた雰囲気に圧されつつ、彼女は若干引いていた。

「シ、ズ、オ!」

「あ゙?………ああ、悪い」

「……いや、なんでもないなら良いけど」

なりふり構わず思い切り彼の名前を呼んだのも束の間、彼女の存在を思い出したのか反射で一度睨み付けたあとシュンッと風船から空気が抜ける勢いで静雄の苛立ちが萎む。
目が合えば険しい表情が穏やかな雰囲気に様変わりしたのを目撃した彼女は、何が原因かはまったくわからないが取り敢えず自分は関係ないらしい、と勝手に納得してそれ以上踏み込むことはしなかった。
踏み込めなかった、ともいう。
――あの目は……完全に殺意だなあ。
以前、既に遠いと言える昔、自分に向けられたことのある明確な殺意の眼差しと同じだった静雄の眼力。
殺したい誰かがいるのだろうか。
その人を今思い出したのだろうか。
――感情豊かというか、沸点が低いというか、情緒不安定というか…。
――まあ、起伏が激しいのか…。
今は消えた、脳内に響いた警鐘を思い出して名前は自分に警告する。
彼女の勘は殊更悪い予感に対してはほぼ外れ無しの、一種の才能の様なものだ。
そんな勘が伝えた警鐘は、『決して彼を怒らせるな』という不確かであり確かなもの。
――まあ…ふざけてるならまだしも自分が怒るの嫌いだから誰かを怒らせる予定も別にないけど…。
――てか今まで素で大丈夫だったんだから平気だな。
一瞬だけ真正面から受け止めた静雄の眼光に、名前は本能で敵わないと悟っていた。
まるで腹を空かせた獰猛な肉食獣が獲物を探しているような、という陳腐な表現は浮かばない。
あれは食べることなど最初から念頭にない、純粋な人間だからこそ沸き起こる明確な殺意そのもの。
けれど、彼女はそれを察知しても彼を怖いとは思わなかった。
名前は睨まれたり殺意を向けられることには慣れていたし、先程の殺意は自分に向けたものではないと静雄の態度から理解できた。
ならばやはり問題など何もない。
普段は使わないが実際は得意である空気を読むという行為を忠実にこなした名前は、あんな不穏な空気で張りつめてしまった教室内は大丈夫だったかと周りを見渡した。
――あら。
そこで彼女は意識していなかった教室の現状に改めて驚き表情を変えた。
教室に数人いた筈の生徒はいつ居なくなったのか一人も見当たらなくなっており、閑散とした広い空間に静雄と名前の二人だけ。
なぜ今日、今、このタイミングで、昼休みだというのにこの教室はここまで誰一人近付かないのか。
先程の光景ととある可能性を組み合わせれば簡単に納得の行く答えを導き出す。
なんとなく虚しい感情がじわりと浮かび、彼女は眉間にシワを寄せた。
――みんな、彼が怖いんだ。

「駄菓子食べよ」

「ああ」

平素に戻った静雄が袋を握り締めていた掌を開く。
あり得ないほどくしゃくしゃなシワが刻まれた袋は、それでも中身の部分には触れていなかったため奇跡的に駄菓子は無事だ。
袋から適当なものを取り出して包みを破る。
先程の不快な怒りもすっかり消えてしまったのか、誰かと一緒に駄菓子を食べる光景など想像すらしていなかった彼はなんだか知った味が特別うまいと感じてしまい、また胸の辺りがむず痒くなった。
――こいつは変わんねえんだな。
怒りは成を潜めたが、自分の状態が周りに与える影響を静雄は少なからず自覚しているし、大抵の人間は自分に向けられた感情ではないと理解してもこの教室の生徒のように自分を恐れ離れていく。
何も変わらず接してくる名前に、昨日も逃げなかったなこいつ、と改めて実感した彼は胸の疼きが強くなった気がした。
昨日から頻繁に襲われるその感覚は、不愉快だが嫌ではない。
ありがとうと礼を言いながら袋を返せば、訝しげだった表情は成りを潜め微笑ましそうな眼差しを向けている名前に気付き静雄は咄嗟に目を逸らした。
――なんつー目で見てやがんだこいつ…。
溶けたようなその表情は特別甘い。

「いやあ…さっきから思ってたけどあんた食い方可愛いねえ」

「可愛くねえよ」

パンをモフモフ、駄菓子をマグマグと食べる青少年の微笑ましい光景が名前を恐れよりも癒しに大袈裟なくらい天秤を傾けさせているとは鋭い彼でも想像すらつかないだろう。
――あ、なんだこいつただの天使か。
年下の男の子を餌付けしている感覚が可笑しくて楽しくて、名前は先程の冷や汗すら忘れて存分にその場を満喫していた。
――天使と悪魔が同居してるって感じかなー、そりゃ確かに近寄りがたいかも。
自分に被害が来る可能性が高い沸点の低い人間というのは、社会に出ても爪弾きにあう可能性が高いため高校時代なら尚更と言える。
少なくともクラスメイトには友達が居ないのだろう静雄に勝手ながら同族意識を向けた名前は、久々に感じる楽しさにテンションを上げていた。

「記念すべきお友達第一号の君に特別サービス!持ってけ泥棒!」

「いやこんなにいらねえよ」

静雄も周りを気にした様子はない。
ああ馬鹿なんだなこいつ、と駄菓子が大量に入った袋を押し付けられたまま簡単な答えに納得してまった彼は、自らの平穏を確かに感じていた。

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