dream | ナノ

――なんて形容すれば良いのかもう、なんかそれすらどうでも良い。

「…はあ」

教室内の喧騒を横目に少女は小さく息を吐いた。
態度からもわかるように、全身の気怠さを余す事なく表現している彼女は机に上半身を預けながらダラリと眠そうな相貌で伏せている。
セーラー服の上に落ち着いた色合いだが、確かに目立つタイダイ染めのパーカーを羽織り、ちらりと微かに覗く耳には無数のピアスが存在する。
些か悪目立ちする格好のせいかただ寝ているだけだというのにどこか威圧を感じさせる少女は、その威圧感とはかけ離れた無気力さを感じながらひたすら時が過ぎるのを待っていた。
そんな彼女――名字名前は伏せているだけであり実際は覚醒している頭でボソリと呟く。
――暇だ…。
至極真っ当でいて当たり前だと言えるその呟きは、言葉として吐き出される事なく頭の中で消えていく。
彼女は自分を取り巻くこの環境に言い知れぬ不満と寂しさと困惑を感じていた。
見知らぬ土地、見知らぬ人、見知らぬ学校、見知らぬ状況。
『今』自分を取り囲む『全て』の環境に明確な答えが見つからない。
彼女は何もかもがわからなかった。
故に、何をどう行動するべきかも判断出来ず、無駄な時間を朗々と暇に過ごしていた。

三日前、とある飲食店にてフルシフトで常に働いていた名前は通勤途中、自転車走行中の前方不注意といった自業自得でトラックと衝突するという交通事故に陥った。
前置きも何も無い、それは唐突すぎて身構える暇も何かを考える余裕すらなかった一瞬の出来事。
しかし、体に走る強烈な衝撃により意識を飛ばす寸前、彼女は確かに己の最期を悟っていた。
――あ、終わった。
ただただ浮かんだその言葉を最後に消え失せた自己意識。
彼女はその時、自分は死ぬと確信を持っていた。
何かを考えたわけでも、意識があったわけでもない。
瞬間的に脳裏に過った言葉がただただ簡単な状況判断のそれだった。
曇り空により薄暗い周囲を照らすための灯りすら点灯していなかったトラックの頭が網膜の奥に焼き付き、身体に走った痛みともわからない衝撃は自身の最期を彼女に悟らせるには十分だったのだろう。
しかし。

「――い、名字さん?大丈夫かい?」

「――…?…………え」

光の点らない奥深く、何かを考える事さえ重要性をまったく感じていなかった暗闇の中。
不意に、唐突に、音があることさえ不自然だと感じてしまう己の意識が拾ったその声に反応した名前はゆっくりと瞼を開いた。
そこで初めて感じた違和感の集合体。
音の正体が声だとわかり、それが自分に呼び掛ける言葉だと理解し、自然と動いた瞼に自分という個体の存在を認識するや否や――彼女は目の前に広がる光景全てに先程とは違った感覚で思考の働きを停止させた。
雰囲気がどこか冴えない、まったく身に覚えの無い中年の男が心配するようにこちらを窺っている。
――………誰。
余りに不明すぎる状況に混乱した名前はまず目先の疑問にだけ意識を向けた。
目の前の男をジッと見つめ、彼が首を傾げたところで彼女はハッと我に返り恐る恐る周囲を見渡す。
――……いや、いやいやいやいや。
――誰、じゃねえよ。
――いや確かに知らないけど問題はそこじゃねえよ。
数秒の思考停止のあと、相手が動きを見せたことによりやっと現実味を帯びた空間。
目線だけでゆっくりと辺りを見渡す動作を繰り返し、目に映る光景が記憶と一致しない事実に気付いた名前は一人、ポカンと呆気にとられてしまった。
――どこだ此処。
意識が黒く染まる前、最後の記憶であるトラックと衝突した風景とはまったく当てはまらない場所に彼女は無傷で立っていた。

「名字さん?」

「…あ、はい」

停止していた思考に潜り込む形で紡がれた言葉が鼓膜を揺らす。
真っ白な思考になっているが故に起きた条件反射だろう、さして間も無く良い返事を返した名前は、やはりそれでも混乱したままであるが故返事をした自分自身に何故か違和感を感じた。
――…駄目だ、わからん。
自然と眉間にシワが寄る。
急に不機嫌な顔付きになった彼女の姿にビクッと身体を震わせた男は、恐る恐る、情けないと言えるだろう態度で名前にか細い声を投げ掛けた。

「や、いや……はは、君もその、こんな時期の転校で思うことはあるんだろうね……いや本当…大変だろうけど先生も協力するから、なにか困ったことがあったらすぐに…うん…」

「…は?」

「!…あ、ごめんね。うん、うん……あ、ね、もう時間だから、ね?うん、教室行こうか…?」

「…は?」

「え、あ、嫌?」

「いや……は?」

男の言葉が全て理解できない名前は年上への敬意も忘れて単純な音だけを唇から落とす。
言葉が通じないわけではない、内容がわからないわけでもない。
ただ何故そのような言葉が『自分』に向けられているのか、彼女はそこがまったく理解できていなかった。

「……もしかして、緊張してるのかな?まあ、大丈夫だよ、うん。君なら多分…うん」

「はあ…」

「よし、じゃあ、ホームルームも始まるし。うん、行こうか」

心此処に在らず、正にその状態。
頭が真っ白になるという現象をリアルタイムで経験した名前は、一先ず目の前の男に促されるまま状況に流されることを選択した。
その後に待ち構えている非現実など考える余裕もないまま、彼女は先をゆったり歩く男の後ろ姿をただただ、ぼんやりと夢見心地になりながら追い掛けた。

それが三日前、意味がわからない現状に放り出された出来事の始まりであり、高校卒業以降数年続いていた不変な日常が思いもよらない形で終了してしまった出来事である。
実年齢で着ていたならばコスプレでしかないセーラー服を、何の違和感もなく着こなすその姿は教室に溶け込む普通の女学生でしかない。
しかし、名前は確かに高校などとっくの前に卒業した成人女性。
だが、今のその相貌は確かな青年期特有の幼さが見てとれる。
――…はあ。
己が肉体的に若返っている驚愕の事実を憂いながら、彼女は心中に深い溜め息を漏らした。
肉体的に若返っただけなのなら、確かにそれでさえ驚くことに違いはないがここまで頭を抱えたくなる心境には陥らなかっただろう。
しかし、違うのだ。
『肉体的』にも、『社会的』にも、『歴史的』にも。
ある一定の記憶に到るまでの全てが退行してしまった名前は、その異常事態に項垂れる他なかった。
人智を越えた異常事態に解決策など浮かぶはずもなく、諦める道以外選択肢がない彼女は混乱を心の奥に押し込める。
何故かわからないが、人生二度目の高校生活を送る自身の環境に彼女はまったく理解が追い付かない。
己と共に何の違和感もなく若返っていた家族が存在する事にもどこか不気味なものを感じながら、名前はとりあえず真実を知るために大人しく学校に通っていた。
しかし、やはり感じる違和感の集合体に疑問は尽きる事なく増えるだけ。
――とりあえず死んだと思ったらまったく知らない土地で、しかも高校一年生までの自分の歴史が無くなってて、そんで何故か若返って高校通ってて、周りには家族以外の知り合いも居なくて、それで………それで?
理解出来ることだけを頭の中で並べ立てるが、続く言葉が無くなると知り得る事実さえ少ない現状に名前は再度溜め息を吐く。
最早この三日間で何度吐いたのか数えることさえ億劫だ。
――もういいや、どうにでもなれ。
三日三晩、己の中にある知識を全て動員し考え続けたものの、『事故にあったら若返り見知らぬ土地で人生をやり直していた』という現象はフィクションでしか聞いたことがない。
この状況に常識を当て嵌めるのは筋違いだと理解はしているものの、俗に言うタイムトリップとも訳が違うと理解しているだけあり名前は自棄になるしかなかった。
タイムトリップならば自分の人生を振り返る筈なので、転入をした過去など無い彼女はその可能性を否定する。
思考を投げ捨て自棄になった名前はゆっくりと机から上半身を起こした。
改めて見渡す周囲の喧騒。
一塊になり楽しそうに笑いを溢している集団、眠いのか先ほどの名前のように机に伏せている少年、それをからかい混じりにちょっかいを出し怒られている数人の男子、遠巻きにそれを見ながらクスクスと控えめに笑んでいる女子達。
平和な日常、何の過不足もない平坦な青春が蔓延する幼い学生達のなんともない普通の光景。
その普通すぎる『非日常』。
己だけが感じているのだろう確かな疎外感に気が付いて、名前は小さな焦燥に眉を寄せた。
これまで考える余裕すらなかった訳だが、状況についての考察を放棄した名前は『現状の事実』だけに視点を向けた瞬間、どうやら言い様の無い孤独を感じてしまったらしい。
――…そういや初日以降誰も話し掛けてくんないな…仕方ないか。
三日前の出来事を思い出し、その時の情景を脳裏に浮かべる。

冴えない中年の男性、今は担任教師だと認識している彼に連れられこの教室に辿り着いた名前はその時、完全に現実逃避を謀っていた。
一年生の表札をぶら下げる教室前の扉、中には興味の眼差しを向けてくる制服を着たどこか幼い容貌の男女、教卓前で促される自己紹介、己がこの教室の転入生だという驚愕の事実。
廊下を歩いている時点で信じられないことにセーラー服を着ている自分に絶望を感じていた矢先、次々に起こる処理しきれない情報に名前は自身にこれは夢だと思い込ませるしか手がなかった。
自己紹介は名前だけを呟く簡潔なものだけで済まし、それ以降は自身が夢から覚めることだけをひたすら念じて現実逃避を謀る。
もし声を掛けられたならば、現実逃避をよくも邪魔したな、という理不尽な意味を込めた眼差しで相手を睨み付ける以外の動作もしない。
切羽詰まった脳では非常に単純な行動しか出来なくなっていた名前は確かに混乱していた。
だがその行動は、結果的に今後の彼女を苦しめる事にしかならなかった。
朝方から放課後までその姿勢を貫いた彼女は、転入一日目だというのに完全に孤立した状況に陥る。
しかしその事実よりも、一向に夢が覚める気配の無い現実に些か冷静になった頭で諦めを感じていた名前はその孤立した事実にまでは気が向かなかった。
自宅の居場所に疑問を感じ、携帯の存在を思い出し、兄に助けを求めたは良いがその兄までも同じ高校に転入していた事実に更に混乱。
見覚えの無い町中に池袋の都心を歩いている事実を聞かされまた放心、見知らぬ自宅での家族の異常と鏡に写った自身の変化に頭を抱えた。
そんな彼女は周囲の自分に向ける印象などその時点では二の次三の次、むしろ思考の茅の外でしかなかった。
しかし『その時点では』である。

――やっちまったなあ。
三日前に仕出かした己の情けなさに呆れながら名前は心中で呟いた。
三日も経てば、信じられない真実ではあるがこの状況は現実なのだと認めざるえない。
認めたからこそ、どう考えても感じの悪い女、近寄りたくない人間という印象を周囲に残してしまった事実に今の彼女は心底反省していた。
名前は誰一人として話す人が居ない、という完全に孤立した状況は生まれてこのかた一度も経験したことが無い。
性格の難ゆえ友人の変動は激しかったが、それでも最低二人は傍に居るという、人に恵まれた環境に常に身を置いていた。
しかし今はそんな友人を作る機会すら自分から手離してしまった状況。
彼女はそんな状況に言い知れぬ孤独を感じていた。
今まで誰か一人でも傍に居たが故に余計強調される疎外感。
今まで一度も感じたことがなかったその感情に僅かな羞恥と不快を感じる。
名前は友人を作ることが特別下手なわけではない。
しかし得意というわけでもなく、大抵は自らが行動するよりも相手から話し掛けてくるのを待つという至極受け身な性格をしていた。
来る者拒まず去る者追わず、友人の変動が多いのも途切れることの無い不変なサイクルに重要性を感じていなかったからだ。
しかし、そんな受け身な彼女が初日に来る者を拒み続けたが為に途切れてしまったそのサイクル。
そんな初体験に陥った名前は今まで感じたこともなかった『友人』という有り難みを深く噛み締めていた。
――こんな集団の中で一人って、結構寂しいもんなんだねえ。
まるで他人事な感想を浮かべながら教室内をぼんやりと眺める。
寂しさを感じていても、それを表に出すこともなく気怠げな表情を保つ彼女は内心ほど焦りは感じ取れない。
元からある性格故の態度なのか、それとも中身は成人も過ぎた大人としての余裕からなのか。
後悔や寂しさを感じた所で、その事についてそれほど重要視出来ない何処か冷めた性格を実感しながら名前はくあっと欠伸を漏らした。
――まあ、諦めが肝心か。
話し掛けてくれる人が居ない限りこの状態は続くだろう。
自分から誰かに話しかけた所で、周りの反応を見る限り無駄だろうと判断した彼女は眠気に抗ぬまま欠伸を溢し続けた。
様々な経験をしてきたからか慣れ親しんだ『諦め』という言葉。
それが瞬時に浮かんだ時点でその言葉が全てなのだが、そんな自身の確信にはまったく気付かないまま名前は眠気に顔を歪める。
三日三晩夜も眠らずに考え続けていたがゆえに張りつめていた気力が諦めにより緩んでいた。
瞼の縁に溜まった涙を手の甲で拭いながら、ぼんやりとした視界に入った隣の席を見て彼女は霞む意識のなか疑問を浮かべた。
――そういや隣に座ってる奴見たこと無いな…登校拒否かな…。

「…だる」

どうでもいい疑問が眠気に掻き消されてしまえば、自然と溢れたその言葉に身体全体が支配される。
――もう…無理だ。
足を組む形で椅子に座り、腕組みをしながら頭を前に垂らした名前はその態勢で瞼を下ろした。
人生の中で重要視することを上げるならば、上位に必ず食い込むだろうほど睡眠を好む彼女は一切の思考を止めて夢に沈む。
――なんか面白いこと転がってねえかな…。
考える以前に暇潰しくらいは欲しいと欲を浮かべながら、名前は現実に目を背けた。

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