眩む幻想が自身を病ませる。 永久に響く夢想が嘯き、生者の鼓動を鳴らしていた。 嗚呼、何故、何故何故何故、どうして。 甘美な幻想は正気の沙汰を遠ざける。 彼の極楽は傍に亡くなった。 故に自身で象った夢でそれを愛でるしか無かった。 既に存在しない姿を瞼の奥に生かし、いつ何時でも傍に在れと小指を絡ませる。 体温の、感触のないその結びに彼はいたく満足していた。 傷む魂は咽び泣くが、彼の心はそれが表に突出するのを許可しない。 これで、良い。 これ以上の極楽はない。 ぐずり、ぐずり。 傷み、痛み、悼む御霊が貪られる。 夢現となる禍が咎を産み出そうと、決して彼は其れを止めはしなかった。 朧気な精神は確固たる意思など持ち合わなくとも、其れを産み出す所業を繰り返し繰り返し、繰り返す。 虚心など不要だが、されど現は彼に苦行を強いた。 触れることも許されない夢中の女を産み出す業。 其れがなければ、彼は裳抜けの殻にしかならない。
「…やれ、三成。何をしておる」
「刑部」
薄暗さが深まり陽も陰る室内、その中心にて一心に天井を仰ぐ三成に大谷は声を掛けた。 夜の帳に背を向け夢現の狭間に居るのか、返答して尚身動き一つしない三成にゆるりと近付く。 時の許される限りこの一室にて日々を過ごすようになった三成は日に日に生気を失っていくようだった。 ふらり、と幽鬼と紛うような所作は所詮正気の沙汰ではなく、以前の狂気とは逸脱した姿は自軍の兵士さえまた違った恐怖に戦慄く。 名前、と微かに聞こえた三成の声に大谷は鈍く瞼を細めた。 名前が、と呟く震える声に耳を傾ける。 しかしそれ以上紡がれる言葉はなく、途端に顔を掌で覆った三成に彼は死相を垣間見た気がした。 やれやれ、と小さく息を溢す。 多大な不幸に覆われた姿は本来なら歓喜すべき事象だというのに。 目の前で音もなく悲しぶ幽鬼に、そんな愉悦を感じはしない。
「名前がどうした」
畳に鎮座したまま背を丸め嗚呼する姿に声を掛ける。 名前、名前と咽ぶ声が室内におどろおどろしく響く中、襖から漏れた風だけが時の流れを見せていた。 さらり、と三成の髪が空気に揺れる。
「……名前が…」
頭部の髪を風が撫ぜた瞬間、ぴたりと動きを止めた三成は口火を切った。 掌で覆われた声色がくぐもった夢を現に落とす。
「名前が、啼くなと私に言うのだ。啼くなと私を宥めながら、頭を撫ぜて宥めてくるのだ……貴様が涙を流すから、私は悲哀を感じるというのに。貴様が顏を歪ませなければこんな滑稽な姿、決して許しはしないというのに…。啼き止まないのだ、刑部。私が否定を繰り返しても、名前は、名前は、哭いてくれと私にせがむ。啼くのではなく哭くようにと私にせがむ。理解できない。名前は、此処に居るのに。私の前で涙に咽んでいるのに。悼めと乞うてくるのだ、死を…名前自身を……意味がわからない。貴様は目の前に居るのに、目の前に、目の前で……何故だ、名前、名前、名前…っ」
掌を外し虚空を睨みながら慟哭する。 憐れんだ眼差しをゆるり、周囲に漂わせながら大谷はゆっくりと室内を見渡した。 三成が乞う先、その周囲、その空間、彼女の面影を執拗に残すこの部屋に二人以外の影はない。 居もしない人影を瞼の裏に映しながら、彼女の形見に囲まれそれを求める彼は異様以外の何者でもなかった。 三成の前に佇む観音開きの鏡台に目を向ける。 それには薄らと白い埃が積もり、主人が長いこと不在である事実を彼等に訴えていた。 どれ程の月日が過ぎたか。 日常というには違和感を持ち、されど異常というには慣れすぎたこの光景。 三成にしか姿を現さない彼女の幻影は日に日に色濃く周囲をも巻き込む。 虚ろな瞳で射竦める彼と対峙したなら、それこそ相手は亡者の怨念を感じるかもしれない。 最早三成は生者ではなく、石田三成という一個人ですらない。 その身で彼女の生を産み出す為だけに存在する憑代。 いつかの彼女を思い出しながら、彼奴もさぞかし嘆いているだろうと大谷は瞼を閉じた。
「…三成、名前の言は誠に正しかろ」
「……なにを…」
「主も知り得る通りだが、彼奴は常に言葉が足りんのよ。啼くではなく哭けとせがむなら、それは主に泣き止めと乞うてるに過ぎん。何故哭く必要がある?名前は其処に居るというに。のう、名前」
「……名前…そうなの、か?」
虚空に放つ問い掛け。 徐々に喜色を滲ませる三成を確認し、今日はこれで何事も無かろうと大谷は背を向けた。 細かな言葉の相違に三成は気付きもしないだろう。 自身の都合に優しいのだ、心の脆さを誤魔化す故に。 縁側に御輿を進み目映く灯る弓月を仰ぐ。 三成の感情の変化で善にも悪にも成り下がる彼女の幻影は三成の中にある彼女を眩ませた。 夢を見ながら現を知らしめる葛藤は彼の精神を虚弱にする。 ゆるりと安堵を漂わせながら。 どろりと生温く、しかし確実に。
「…不幸、よな」
しかし、其をなくして幸福とも云えはしない。 闇に隔離されたかのように異様な空気を纏う室内からは三成の微かな声だけが聞こえていた。 まるで恰かもそこに誰かが居るかのように淀みなく紡がれる一人芝居を背を向けながら耳にする。 そろそろ頃合いだろうと動こうとした瞬間、びくり、普段滅多に動じない肩が竦んだ。
『刑部様』
バッと背後を振り返る。 懐かしさを感じる確かな声音で紡がれた自身の名。 幻聴かと暫し呆然と竦んでいれば、三成が会話を止めこちらを見据えていることに気付いた。
「刑部、名前が、」
たらり。 覚えの無い寒気に何故か汗が滲む。
「貴様を呼んでる」
2014.5.10
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