dream | ナノ


凛とした静寂に体が沈む。まったくもって意図していなかった事態に、心の中で悲鳴を上げた。何故、なぜ、なんで。目の前に広がる血の海の正体がわからない。

「なに、コレ…」

まったく、意味がわからない。いきなり表れた絡繰りの大群。急なことで呆けていた町の人たちが、次の瞬間には悲鳴も上げずに地にひれ伏していた。中には全身黒い絵の具にでも染められたかのように真っ黒になったあと、跡形もなくバラバラに砕ける人もいて。意味が、わからない。自分だけが何の被害もないことすら、この光景の中では異常に思えて全身に鳥肌が立った。なんで、無事なの。本当は喜ばしいことなのかもしれないけれど、グロテスクでいて奇怪な絡繰りに囲まれている今、とても素直に喜べる状態ではなかった。

ずらっと並んでいる絡繰りは十数体ほどだろうか。球体や人型、その他のよく意味のわからない形の化け物が言葉を発つことなく唯ただ、そこに居る。
……………。
き、気まずいのは何故だ…?!微妙にズレたプレッシャーを感じた気がして、周囲に広がり始めた霧に便乗して目の前の惨劇を脳内から消すことにした。これは、夢だ。夢に違いない。夢に決まってる。私の思考は自己暗示という現実逃避を始めたので、それならばと瞼も閉じて完全に視界をシャットアウトした。音は、何もしない。さっきまで賑わっていた街の表通りが、ありえないほど静かすぎて思わず目の奥がツンとしてしまった。ダメだ、泣くな。これは夢なんだ。現実じゃない。

不気味な絡繰りの行方が気になって、そうっと瞼を動かした。すると濃い霧が充満していて、まったく周囲は見えない状態。夢心地な風景に思わず呆けてしまったけれど、嗅覚を刺激した異様な臭いに思わず顔を顰めた。なに、これ……気持ち悪い。視界がグラリと歪みだし、体の力が抜けるのを感じる。ガクンッと全身が揺れ、膝が崩れたせいで鈍い痛みを足に感じた。ふらふらと思考能力が低下していくのがわかる。何、これ。本当に意味がわからない。気力を振り絞って服の袖を伸ばすと取り敢えず口と鼻に当てた。これ絶対、吸い込んだらダメなやつだ。もう既に取り返しがつかないくらいには吸い込んだ気もするけどとりあえず気休め。霞む視界を右往左往に目配せしながら、急に消えた絡繰りがまた襲って来やしないかと警戒した。意味わかんないことだらけの中でも、とりあえずわかっていることは一つだけある。
絶対、死にたくない。
住み慣れた町が一瞬にして死の町へと変貌を遂げたのに、私が生きているということは何かしら意味がある筈だ。そうじゃないと理解できない。いや今のところ何一つ理解出来たことなんてないけど。それでも、私に何かあるんじゃないかと期待を込めたのは一先ずこの生命の危機から逃れたいからだ。だって死にたくないもん。まだ若いんだよ私。
段々と晴れてきた視界にも気付かずに、ひたすら布越しの呼吸に専念する。このガスみたいなのを越えれば、今の状態よりは良くなる筈。頭はフラフラだけど霞んだ視界は通常に戻りつつあるし。お願いだから早く綺麗な空気をください、このまま死ぬなんて嫌だ絶対。早く、早く、早く!

「どうしました、お嬢さん」

低い、穏やかな声が私の耳に届いた。今の現状に全く相応しくないその声に、呼吸だけを意識し俯いていた自分の体がビクッと激しくすくむ。ちょっ、な、驚かせないでよ誰だよ。現実逃避とも言える罵声を頭に浮かべながらも、嫌な予感しかしない声に冷や汗が浮かんだ。
驚いた表情のまま俯いていた頭をのろのろと上げる。最初に目に写ったのは高級そうな黒の革靴、先の長細い黒のステッキ。ゆっくりと視界を広め、来ている服がこれまた高そうな燕尾服だと言うことに気づき目の前の奴が貴族だと理解した。そうじゃないとこんな高そうなの着てるわけがない。苛立ちを感じてしまいそうな程のろのろとしながら首筋、顔面と視線を移したところで私は驚愕に思わず口に当てていた袖を離してしまった。

「…ひッ」

「…落ち着いて、お嬢さん」

「ひ、ひいっ……あ、あ、貴方…!」

「そんなに怯えないでくださ、」

「か、顔色!顔色!顔色が…っ!め、目茶苦茶悪いですよ?!顔色!灰色って何?!病人への同情通り越して気色悪い!」

「…へ?」

人間として認めてはいけないほどの灰色の肌を持つ男が目の前に立っていた。いや、ちょっ……え?塗ってる?それ絶対何か塗ってるよね?

「……サーカスの人ですか?」

「えーと……違いますよ?」

サーカスや見世物小屋の人ならとりあえずその顔色でも無くはないと思ったけど……どうやら違うらしい。ハハッ、と小さく苦笑したその人は、一つ咳払いしたあと優雅な身のこなしでシルクハットを手に取り恭しくお辞儀をした。歩道のど真ん中で腰が抜けている私はそれをただ見つめるしかない。え……え?

「ご挨拶が遅れて申し訳ありません、私はティキ・ミック卿と申します」

顔色の悪さを除けばとても魅力的だと思われる笑顔を向けられるが、一から十まで何も理解していない私からすればこの男は怪しすぎた。よく考えなくても、この地獄のような状況に陥ったと同時に現れたこの男、怪しすぎて泣きたくなる。もしかしたら、あの絡繰りの主犯かもしれない。こいつがここに出てきたから、私に被害が無い内に絡繰りが消えたのかもしれない。私が無事なのは偶然でしかなく、もしかしたら今からこの男に…。

「や…いやっ」

急に恐怖が沸き上がって、動かない下半身の代わりに腕を使って後ずさった。服が汚れようが破けようがいまはそんなことどうでも良い。頭の中を占めるのは、逃げなきゃという脅迫にもにた本能。逃げなきゃ、逃げなきゃ。殺される。

「…どうしました?」

ニヤリ、と笑んだ男の顔に背筋が凍った。

「やっ…死にたくないっ!」

頬に伝った涙に気付かないまま、ようやくピクリと反応した下半身に気付いて勢いよく立ち上がった。フラフラと足が縺れながらも、今出来る限りの早さで男とは反対に走り出す。全身がガクガクと震えてまったく走れない、進めない。それでも、ここに居たくなかった。死にたくなかった。
あの男が怖かった。

「名前」

思ったよりも近くで投げ掛けられた自分の名前に、走っていた筈の足が徐々にスピードを落とした。え?なんで?とぐじゃぐじゃな思考回路のなか呟けば、完全に停止した私は動けない体に絶望を感じた。なんで、どうして。

「名前…」

意味が、わからない。

「…あ…あ?あああ゙あ゙あ゙」

途端、あり得ないほどの頭痛に襲われて、あまりの衝撃に悲鳴をあげながら私は頭を抱えた。痛い、痛い、痛い、痛い!潰されているような、ズタズタに裂かれているような。言い様の無い激痛に、瞼を閉じて叫び続けた。

──なんで、どうして私が…。

私じゃない、私の声が、頭に響く。

──どうして貴方が…っ!

瞼の奥の暗闇の中で、下弦の月のような口許を浮かべた白い“影”が私に向かって話し掛ける。

──奴等を許すな、奴を許すな、嘆け、恨め、思い出せ、目を開け、彼らを思い出せ

額がズキりと軋みだす。段々遠ざかる影と声、頭痛。光に包まれた気がした。そんな錯覚を起こすほどのハッキリとした意識に、涙が溢れる。

──あの人を、思い出して

「あ…ああ…っ」

手に伝うぬるりとした感触。頭痛が治まっても、剥がすことが出来ない掌に私は涙を押し付けた。なんで、なんで、なんで。
どうして私は眠っていたの。

「終わりましたカ?ティキぽん」

俯いたまま嗚呼を漏らしていた私の耳に、どことなく聞きなれた軽い口調が聞こえた。驚きに涙が止まり、あまりの事に目を見開く。ゆったりと顔から涙と血濡れになっている掌を外せば、なんとも言えない感情が私に溢れた。

「久しぶりぃ、キョーダイ」

「相変わらず名前は泣キ虫ですネ」

笑顔を張り付けた巨体が私の前でしゃがみこみ、白の手袋に包まれた大きな掌が頭を撫でてくる。一気に沸き上がる愛しさに、私は再び顔を歪めた。

「ヨシヨシ。遅くなっちゃいましたが、迎えに来ましたヨ!」

「千年公ー、名前の顔血だらけだから拭くねぇ」

「ハイハイ」

「乾かないうちにーっと……うん、可愛い!」

信じられなかった。さっきまでの恐怖や痛みの代わりに、溢れる愛しさに。

「…なーんか良いとこ全部持ってかれたんだけど」

ついさっきまで恐怖の対象でしかなかった声が聞こえて、女の子の後ろに立った男に目を向ける。不思議と、恐怖は感じなくなっていた。それよりも、そんなことよりも。いっそう強くなる、沸き上がる激情。

「ジョイド…」

私の中のノアが、彼を呼んだ。

「ん?じ…なんだ?」

「…え?私なにか言った?」

「やはり覚えていましたカ……ティキぽんだけみたいですけどネ」

「えー!ティッキーだけズルーイ!」

まあまあロード、と宥めている彼らに懐かしさを感じた。私の存在の意味は、町人で唯一生かされたわけは既に理解している。私は、帰ってきたんだ。ノアのメモリーが私に歓喜を与えた。息ももう、苦しくない。心の底から、愛しかった。

「さて、無事に覚醒も終わったことですシ」

「名前帰ろぅ、ボク達の家に」

千年公と呼ばれる彼が話を切ったと同時に、地面から音をたてながらなんとも派手な扉が飛び出してきた。驚きに目を瞬かせていると、座り込んだままの私の前にスッと手を差し伸べられる。

「お帰り、キョーダイ」

「……随分口調変わるね」

「こっちが素だ。あのままのが良かったか?」

「んーん、こっちのがらしいよ」

ニカリと笑ったりキョトンと表情を変える彼は、最後に少しだけ噴き出したあと差し出す手をフラフラと揺らした。

「ほら、いつまでも座ってんなよ。皆待ってるぜ?」

楽しげに笑う彼。心に温もりが灯った気がして、私も微笑むとそっと灰色に染まった手で彼の手を握りしめた。

「おいで、名前」


2012.01.24


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