dream | ナノ


余り思い出したくもない、あいつ等と出会う以前ほど幼い頃の記憶にも。
小さいけれど、確かな光が傍にあった。

「エース、ダダンが怒ってたわよ?」

凪ぐ海面。
その先の青にあてもなく視線を投げていたら、妙に優しくて安堵するような雰囲気を纏う静かな声がおれを呼んだ。

「…起きてていいのか?」

「今日は調子が良いの。それより、また喧嘩したそうね?本当生傷が絶えないんだから」

「別にどうでも良いだろ」

優しい、女だった。
おれよりもずっと高い背に、常に微笑みを浮かべた落ち着いた雰囲気。
荒れていて生傷の絶えないクソガキのおれに毎回飽きもせず手当てをしてくれる、今思い返してみれば母親が居たならきっとこんな人なんだろうと思えるような存在。
身体が弱く、普段は引き籠もるかのように自室の窓際で外に思いを馳せるだけの彼女は、何処から聞き付けるのかおれが暴れたと耳にするといつも駆け付け、そしていつも優しく手当てを施した。
ジジイの知り合いだという彼女は、おれの出生も何もかも知っている。
それでも変わることなく向けられる微笑みに、疑心と安堵に挟まれた複雑な心情におれは陥っていた。
信じては、いる。
おれの掌に優しく包帯を巻く女。
この優しい手で、包み込むような腕で、おれは確かに育てられた。

「よし、終わり。他に痛いところは?」

「無い。……なあ」

「ん?」

「なんでいつも、怒んねェんだ?」

無償と言っても過言ではないその愛が、当時のおれには疑問で、そして嬉しくもあり、けれどどうしようもなく恐ろしかった。
いつか彼女も、他の奴らのようにおれの存在を否定するのだろうか。
本当は、生まれたことを謝罪しろと、存在事態が罪だと、心の奥底では思っているのではないか。
もしも母親が生きていたなら、と思わず想像して重ねてしまうほど惜しみなく優しさを与えてくれる彼女を。
弱った身体に鞭を打って、おれを一人にさせないよう気遣う彼女を、疑う自分もまた許せなかった。
けれど、仕方がなかったとしか言いようが無い。
幼いながらも、常に殺意の中生きてきた。
生きる意味も見出だせず、常に怒気で頭を支配されていたおれには、欲しているはずの近すぎる愛情すら、完全に見失っていた。
そこに答えはあったというのに。

「怒られたいの?」

「おれは悪くない」

「そう…ならそれで良いじゃない」

「…そうか?」

「そうよ」

防波堤にちょこんと座るおれの隣に静かに腰掛けて、いつのまにか橙色に染まり始めた空を見上げながら彼女はまた微笑んだ。

「今のエースはまるで夕陽ね」

細く頼りない腕を空に向け、赤く色付く夕陽に手を伸ばしながら、彼女は掌をギュッと握った。

「夕陽…?」

「そ。人間が一番不安に感じたり怖気付く空は、夕陽なのよ。ただそこにあって、私たちを優しく照らしてくれてるだけなのに。柔らかい光を見ないで、その先の夜闇を連想するからかもしれないね。……疑心は悪くないわ。疑いも無しに騙されることも、誉められたことじゃないから」

瞳を細め、眩しそうに夕陽を見つめる。
夕陽に照らされる彼女を見つめていたおれには、彼女の動作一つ一つが脳に刻まれていた。
色も、動きも、言葉も。
その世界を構築するすべてを。

「夕陽も悪くないけど、エースには正午の元気な太陽の方がお似合いよ」

「どっちも太陽には変わりねェ」

「そう?少なくとも印象は変わるわ」

この話に意味があったのかは、正直言うと今もよくわからない。
唐突な話をよくする人だったから、彼女事態あまり考えていなかったのかもしれない。
それでも。

「どちらにせよ、エースを例えるなら太陽は欠かせないわ」

「…なんで?」

「日陰に暮らす私を照らしてくれるもの」

夕陽から顔を反らして、おれを見つめた彼女はやっぱり変わらない笑みのまま。

「貴方がいるから私は笑えるのよ」

「…」

「太陽は誰からも愛される。……負けちゃダメよ?」

おれの頭に優しく手を乗せ、ぐしゃぐしゃに髪を掻き混ぜるように撫でる。
何に、負けてはいけないのか。
存在を否定する奴らの言葉に?喧嘩に?それとも出生に?
それか、先の見えない未来に?

「わかんねェけど…わかった。おれは誰にも負けねェ」

「そう」

おれの乱れた頭を手でぽんぽんと軽く叩く動作をする彼女。
なんだかその笑みを見ていられなくなって、おれは沈みかけている夕陽に視線を投げた。
濃くなる紫色の空を見てもなにも感じない。
話の大半は、理解できなかったように思える。
それでも、温かさが滲んで、何故か泣きそうになった。





「…ほー、その人がエースの初恋?」

ジョッキを片手に、おれの話を興味深く聞き入っていた名前に笑ってみせる。
宴の喧騒とは些か離れたこの場所では、バカ騒ぎが続くあちらとは違い落ち着いた空気を感じた。

「初恋ッつーか……よくわからねェが、初恋って言われて思い当たるのはそれしかねェな」

「へえ…なんか母性に溢れた人だねえ」

「まーな。やっぱおれからしたら初恋の相手っていうより、保護者の印象の方が強いし」

珍しく減っていない酒に気付き、そんなに夢中で話していたのかと首を傾げながら言葉を止めた瞬間勢い良く酒を煽る。
船の縁にもたれて立っているおれの隣で、甲板に腰掛けながら夜空を仰いでいるそいつに目を向けた。
酷く、心が凪いだ。

「……お前も同じだな」

「ん?」

「いんや、何でもねェ」

おれを見上げて首を傾げた名前に苦笑を向けながら、あの人の手つきを思い浮かべて彼女の頭を撫でてやる。
驚いた表情をしたあと、こちらの気が抜けそうな程アホみたいにふにゃりと笑む彼女を見て。
ああ、やっぱり違うな。
ふと浮かんだ言葉がしっくりと心に填まった。

「同じだけど、違うもんだな」

「ん?なにが?」

「ひとりごと」

「?……ああ、そう」

「なんだよ」

「別にー?」

時折見せる大人びた笑みを今向けられたせいか不意打ちにドキリとしながら、どこか見透かされたような気がしてジョッキを傾けながら何かを誤魔化した。
喧騒と音楽に紛れた波の音が鼓膜を揺らす。
ちらりと横目で盗み見れば、無邪気な笑みに戻っていた名前にふっ、とおれも顔を綻ばせた。

「私の初恋の話もしてあげようかー?」

「は?おれじゃねーの?」

「違うんだなーこれが」

地元の島で大工してたお兄さんなんだけどね、と懐かしそうな顔で語り始めた名前に苦笑しながら、闇に紛れた星を仰ぐ。

『月や星も太陽がなければ輝けないのよ?』

おれが彼女を照らしていたというのなら、おれにとっての彼女は間違いなく月なのだろう。
なら隣に居るこいつはいったいなんなんだと考えたところで、何故だかその考え事態が無駄に思えて瞼を閉じた。

「おーいエース、聞いてる?」

「聞いてる聞いてる。お前が半壊させた橋を不良どもと直しに来た大工にパシられた結果半日説教食らったのが惚れた理由だろ?……え、なんだお前」

「ちょっ、混ざってる、意味がわからなくなってる!」

「相変わらずだったんだな…」

「違うってば!」

どう考えても似てないのに似ている彼女に笑いながら。
形容できない存在に愛しさが込み上げて、拗ねた顔をした名前をギュッと、抱き込んだ。

「誤魔化し禁止ー」

「んー…なんでも良いや」

「…今日のエースは意味わかんないねえ」

ありありと慈しむ想いが伝わる、優しい動作で頭を撫でてくるその掌はやはり彼女とは違う。
そして、おれも。

遠くから聞こえる冷やかしの声に混ざって、懐かしい微笑が聞こえた気がして瞼を閉じた。


2013.8.31

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