薄暗い照明はいつもより静かな空間に妙にマッチしていて、不審に思った私は足を止めた。任務が転がり込む日でさえ、常に二人か三人は居るであろうそこには人っこ一人見あたらない。そこらに散らばる空の酒瓶や煙草の灰が閑静な空間をより際立たせていて、意味もなく悲しい気持ちになった。目的の人物が居ないのを確認して、無駄足だったと一つ息を吐いてから歩を返す。
「っあ、」
「よお、名前」
振り向いた先、扉のすぐ前に音もなく佇んでいた男に驚き一瞬だけ呼吸を忘れた。いつから居たんだ、この男は。悪戯が成功したかのような意地の悪い笑みを貼り付けて、彼は私に近づきながら口を開いた。
「悪いな、誰もいなくて。何か用だったのか?」
「……アンタが私を呼んだんでしょ。用がないなら帰る」
「おっと、冗談だ」
彼の横をすり抜け部屋から出ていこうとすれば、軽く腕を捕まれ引き留められた。振り向いたせいで彼と視線がばっちりと絡む。相変わらずの彼の垂れ目は、私を馬鹿にしているように見えて自然と眉間にしわが寄った。 暫く無言で見つめ合っていると、瞳を細くさせγは私を引っ張り込んだ。急なことで足をもつれさせたため、勢いづいて倒れ込んだ私は彼の胸元に熱烈ダイブ。痛い、非常に痛い。鼻が。かろうじて変な声は出さずにすんだが、あまりの痛さに捕まれていない方の手で鼻を押さえながら思わず呻いた。急になんなんだ、この男は。涙まじりに顔を上げ睨みつけてやれば、口を覆い肩を震わせている姿が見え私は自分の額に青筋が立った感覚がした。
「……なに笑ってんの。ていうかいきなりなにすんの」
「っ…いや、悪い。にしてもお前、っ」
「……」
なにがツボに入ったのか、珍しいくらい笑い続ける彼の思考がわからない。別段わかりたくもないので彼の腕の中から脱出しようと腕を突っぱね押し返すが、悲しいかな力の差でびくともしなかった。
「γ、放して」
「なんでだ?」
「なんでって…不愉快だからよ」
「つれないねえ」
「馬鹿じゃないの」
この無意味な攻防も私を苛立たせる。いろいろ思考を練った結果、私はどうやら暇潰しの役割で呼ばれたみたいだと結論付けた。ふざけるな、こっちはこっちで忙しいというのに。
「放しなさい。アンタの暇潰しに付き合うほど暇ではないの」
「あ?なんだなんだ、今日はいつにも増して機嫌が悪いな」
「放せ」
「そうかっかするのは良くないぜ?」
「誰のせいだとっ…っ」
気付いたら鼻を掠めてしまうほどに近づいていたγの顔に息を飲む。視線が絡まったままの彼の目元が、楽しげに益々細められたことから遊ばれていると気付いた。
「息なんか詰まらせて、かわいいお嬢さんだな」
「な…っ」
なんなんだ、この男は。女で遊びたいのならそこら辺でひっかければその容姿だ、選び放題だろうに。それか太猿の取り巻きでも摘み食いすればいいものを。今日は誰も居ないから、だから私を呼んだのか? 摘む相手さえ居ないから。 片腕を出してγの顔を掴む。私の行動が予想外だったのか、驚いたようにγは眉をしかめた。そして一緒に若干力もゆるんだので、その機に乗じて私は腕を突っぱねた。顔の表面に吐息が掛かっていたほど近付いていた彼の顔が遠ざかる。
「…おいおい、なんの冗談だ?」
「なにが冗談。近づくな、そして放しなさい」
「断る」
「…いい加減にしろ」
いつもそうだ、この男は。私の心を知っていて揺さぶる。嫌いだ、こんな男。
「せっかくアイツら追い出してまで二人きりにしたんだ、いつまでも意地張るなよ」
「なんの意地だよ、馬鹿じゃない?」
「それはお前だ」
顔を抑えていた腕を捕まれ引き寄せられる。勢いづけてグンと近寄った顔に思わず驚いた私は反射的に瞼をおろした。 ああ、本当だ。瞼をおろすだなんて、私はγよりも馬鹿だ。
「っ…んっ」
腰に回っていた彼の腕が後頭部に移動したため身動きできない。時折唇を離すけれど、息をつく間もなくまた繰り返される口づけ。酸素不足のせいか、はたまた違う理由かはわからないけれど私の頭は芯が溶けてしまったのではないかと思うほどなにも考えられなくなった。
「っ…はあっ」
「名前…」
やめて、近付かないで。 遊びの女なんてまっぴらごめんだから。
心の在処 届かない想いを持つ貴方は、
「愛してる」
違う
「名前…」
やめて
「信じてくれ…っ」
無理よ だって貴方の心は昔から、
忠誠を誓ったあの方だけのモノ
2008.8.6
|