dream | ナノ


雨が降っていた。

小雨よりは重く、けれど然程障害にはならない雨霰。辺りを見渡せば民家は一軒も見当たらず、雨音により騒々しく響き渡る闇夜は些か朧げで不気味だ。高さの無い木々が己を露にしているようで落ち着かない。雨を遮るものはないかと、ぼんやりとした思考で佐助は視線を彷徨わせた。いつもなら雨など気にせず主の元へと帰るというのに、この日は何故だか違っていた。疲れていたのかもしれない。休みの無い日々、任務を授かる都度嗅ぐ血の香りと臓器の臭い。或いは酔っていたのか。その凶器に塗られた己の血生臭く染まった日々に。
ちかり、と視界の端に輝が見えた気がして足を止める。ざあざあと、雨の音が一層濃くなっていた。瞼を細め目を凝らせば、忍ですら見逃すのではと思えるほどの灯りが確かにそこにあった。強くなる雨足に内心で舌打ちをし、そこに向かって地面を蹴り上げる。何故か、無性に雨に濡れていたくなかった。普段なら返り血が流れ得した気分にも成るはずの雨が、血が流れた今は雨独特の臭いが染み付いているかのようでいつもは感じない不快感に襲われる。任務は無事終わり、報告も既に済んでいる今、急ぎ足で主の元に帰る必要は今のところ無い。規則正しい生活を送っている主は、きっとこんな真夜中に起きてはいないだろう。明日の鍛練の為にと意気込み毎夜深い眠りについている彼の姿をいったい何年見守ってきたのか。だからこその確信。ならば大丈夫、という無駄な意気込みに近い感情で佐助は滑りやすくなっている枝を殊更強く蹴り上げた。
灯りが大きくなるにつれ、雨の音も大きく響きだす。ぼんやりと朧げだった灯りは段々はっきりしたものに変わり、そしてその灯りは小さな古寺からであると気付いた。戸が無防備にも全開され、ゆらゆらと妖しげに揺れる一本の焔と蝋台が目に入る。跳躍し音もなく屋根に飛び移った。物音を建てず忍びながら屋根裏へと入れば、座った瞬間前のめりになり水が滴りはじめた髪が頬にぶつかり眉を潜める。息を鎮めて我にかえれば、以外と広い屋根裏に対し幅の狭い眼下の部屋に気配があることに佐助は気付いた。一瞬警戒するも、こんな辺鄙な土地にある古寺に灯りがあった時点で人が居ることは確定的であったと思い直す。つまり、元から居た眼下の気配の主からすれば、急な侵入者は己の方であって。そこまで考えて、低くしていた身をさらに折り屋根の板へと手を伸ばした。安全か否か、それをただ確かめるだけ。ただの修業僧や流浪の者なら警戒はいらないが、武士や敵軍、はたまた変化した忍なら早々と対処しなければならない。灯りをつけ戸を全開にするような無防備な輩が警戒するほどの者とは思えなかったが、自身の内にある何かが己に警報を伝えていた。虫の知らせのような微かな警報、それは薄板を外そうとするたび激しくなる動悸が確実な警戒へと変貌を遂げる。厭な高揚感に、激しくなる動悸。あれほど不快だった雨音が、まるで降り止んだかの如く聞こえなくなっていた。

「…降りてこい、童」

びくり、と肩が跳ね上がる。今まさに薄板を横に移動させる瞬間下から掛けられた声。予想外にも、その声の主は高くもあり若干低くもある音程で言葉を紡いだ。女だ。しかも声からしてかなり幼い、少女くらいの。何故ばれたのかという疑念が頭を過るが、ふとあることに気付く。声の主は確かにこの天井裏に向けての言葉のようだが、生憎と己は童ではない。姿が見られていないから勘違いしているのかと思いきや、ならば何故己に気付いたのかと佐助は眉を潜めた。忍だろうか。だがもし敵方の何かだとしても、己を下に呼び寄せるということなどしはしないだろう。そんなことをしたら、それはただの馬鹿だ。

「なんだ、はようせい。なにも獲って食ったりなどせんよ」

薄板を外し眼下に視線を向ける。ばちりと視線が合い、相手の容貌が見えた瞬間張り詰めていた気がするすると抜け落ちた。少女、ではなく。薄く笑いこちらを見上げているその姿は、明らかに。

「…そっちが童じゃないか」

齢五歳くらいだろうか。巫女の風貌に、鮮やかな黒髪。薄く笑うその笑みと警戒の無さに、毒気を抜かれ佐助は潔く天井から姿を表した。

「やっと降りたな、童」

童、と今度はこちらを見据えながらはっきりと言う少女に目を見開く。なんなのだろうか、彼女はまさか己よりも歳が上なのか。だが見るかぎり、その線はありえない。何処をどう見ても、普通の少女だ。近付いて確信したことは、忍が変化した者ではないということ。変化では隠せない筋肉の動きが、少女は一般人のそれ、或いはそれ以下のものだった。もし何かの罠だったとしても、彼女が己に何かできる事は無いだろう。佐助は少し大げさに溜息を吐き対面するように目の前に座る。なにか楽しげに笑うその表情は、何故か妙に大人びていて釈然としない感情が浮き上がった。

「人を見ながら溜息などするものではないぞ、童」

「……お嬢ちゃん、何でこんなとこに一人で居るわけ?親はどうしたの」

「たわけが」

大人びた、と言うよりも完全に子供の口調ではない彼女に不信感が募る。童と言われるのに抵抗が無いわけではないが、この姿を見て尚も言うということは変える気はないのだろう。この辺りに民家が無く、そして人の気配もしないことから少なくとも親は近くに居ないらしい。それとも、捨て子だとでもいうのだろうか。

「そのようなつまらんことはどうでも良い」

「いや、明らかに怪しすぎるからさー、君。俺様の気配もわかったみたいだし?」

「垂れ流しだったぞ、用心せい」

事も無げに言われた台詞は酷く心外なものだったが、確かに気が散漫だったためそうだったのかもしれないと口を閉じる。だが、いくら散漫だったとしても、こんな童に感付かれるなどあるのだろうか。不信感は消えないままだが、害が無いのならどうでもいいと考え直した。彼女は変わらず笑んだまま、己を見上げていた。

「童、奇怪な髪色と衣を纏っているな。何者だ?天井裏に居たというのも、また奇異なものだ」

「えーと、なんて言えばいいのかねえ…」

心底わからないという顔をしている少女は、決して演技などには見えなかった。瞳を細め、奇妙なものを見るような目付きでこちらを窺っている。多分、先程までこちらが其の顔を彼女に見せていたのだろう。佐助の内に若干申し訳ない気持ちが生まれるが、彼女の質問に己が忍だと応えて良いものかどうかがわからなかった。第一、忍という単語が彼女はわかるのだろうか。一般人ならこの容貌を見れば一目でわかるものだ。だが、幼い彼女には到底知り得ているものだとは思えない。

「……成る程、成る程」

「は?」

「忍というものは、酷なのだな」

またもや、目を見開いた。彼女に対する不信感が強まり、隠れていた警告が姿を露す。知っていた、というよりは、つい今しがた聞いて感心しているような物言いだったからだ。まるで、己の内を読み取ったかのように。

「そう警戒するでない」

浮きかけた腰を正し、冷や汗が流れそうな空気を振り切るように頭を振る。其の動作が面白かったのか、彼女は口元を隠し今度はくすくすとこれまた大人びた笑みを零した。なんなのだろうか、彼女は。忘れかけていた雨音が、些か弱まりながら響いていたのが聞こえた。

「…本当にさ、何者なわけ?手始めに名前は?」

「何者……そうだな。名は名前とでも呼んでくれ」

「名前、ね。俺様は佐助」

「佐助」

「うん……で、何者?」

噛み締めるように名を紡いだあと、何者かという問いに名前はにやりと口角を上げた。警告が、また響く。知りたいという好奇心と、知ってはならないという警告音。こんな小さな生物に、己はいったいなにを恐れているのか。その理由が見つからず、しかもそれが恐怖を一層掻き立てるものとなり冷や汗がまた流れた。

「…童には、まだ背伸びは早い」

暗に、知らなくていいという意味か。

「いや、いや、久しく誰とも話していなかったが、やはり面白いな」

愉快に笑むその表情は、言うならば無邪気。見た目にそぐわぬ話の内容に疑問が浮かぶが、一々気にするには些か疲れが蓄まりすぎていたようだ。異様なほどに、瞼が重い。

「佐助、寝るか?」

「ちょっ…瞼が…?」

「気にするな、それは必然が織り成す自然なこと。存分に休め、此処はそういう場だ」

自然と体が横たわる。対面してから初めて動いた少女は、その小さな太股に彼の頭を乗せ膝枕の状態でその頭を撫でた。緩く撫でられるその動作に瞼が段々と降ろされる。今までに無かった、あってはならない程の安堵感に包まれ力が抜ける。

「なんで…戸を…?」

微睡みのなか、今まで気になっていたことを呟く。何故かわからないが、今聞かなければならないような、後に回しては後悔してしまいそうな気がした。空気がふっ、と軽くなり、彼女が一層暖かく笑んだのがわかった。

「…この燈に引き付けられ来るものは“陰”がかぶさり“人”を食い潰しかけている者だけ。だから私は戸を閉めぬのだ。引き付けられた哀れな者を拒まぬように」

暗闇が己を支配する。うっすらと開いた視界に映る外の風景は、相変わらずの、雨模様。濡れていたはずの全身がいつのまにかすべて乾いていることに気付いたが、そんなことよりも今はこの微睡みに支配されたい願望が勝った。

「そんなことは気にせず、今は眠るがいい」

完全に降り切った視界は朧げな蝋燭の輝さえ遮断した。耳に届く声が子守歌となり、髪を梳く指先が深い睡魔を促す。

「お前を傷つけるものは此処にはないのだよ、佐助」

その言葉は微睡みに支配された悩が理解することは既に不可能。しかし、久しく感じていなかった安堵の空気に、張り詰めたものが消え去っていた。優しい暗闇に、意識が堕ちた。



「……ん…っ」

意識が覚醒する。何故、己はこのような場で横たわっているのだろうか。隣にある、灯火が消え煙を発ち昇らせる蝋台をぼんやりと眺める。今しがた消えたらしく、芯の焦げ付いた臭いが鼻腔を擽った。途端に覚醒した意識に焦りを感じ、現状を把握しようと勢いを付けて体を起こす。

「あ…れ…?」

起き上がった瞬間、体の異変に直ぐ様気付いた。軽いのだ、この上なく。まるで翼があるかのように。不審に思い周りを見渡す。天井は高いが、横幅が些か狭い古寺。何故、こんな所に居るのだろうか。思い出そうと記憶を探るが、背の低い雑木林を駆けていたところで生憎と記憶はぷつりと切れている。開け放してある戸の外側を眺めた。鈍く輝る空が目に痛い。微かに暗い外は昨夜駆けていた天気と変わらず、

雨が降っていた。


眩惑

2008.9.19


「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -