幸せが積もる度に苦しくなるのは結末を知っているからか。
激しくなる雨音、目の前を走る男が差し出す手を俺は掴めないでいる。


feel true happiness











突然の雨降り。二人して傘を忘れて濡れた体を温めるために無理やり鬼道邸の馬鹿でかいシャワールームに押し込まれたのはついさっきのこと。もはや桁違いの広さをもった浴槽や部屋に妬むこともなく、ただなんで俺とこいつ付き合ってんだろって素直に疑問に思うだけ。さあさあと先程と違うあっつい雨に思考力は奪われて疑問は解決しない。きもちい、ってよりは熱いぐらいになってきたのでシャワーを止めてふと鏡を見た。でっかくて全身を移してもまだ余りあるような、ぴかぴかの鏡はもくもくとした湯気の合間から有りのままを映す。見えるのは少しばかり血色が良くなった肌に覆われた細い骨と肉のライン。胸は当たり前だがまっ平で、そこから下れば割れた腹筋と男にしかないもの。


そう、俺は誰が見ても男だ。

(…だから俺は鬼道に夢を見せてやれない。)

例えば町中で手を重ねれば世界は急速に色付いて輝き、そしてほんの少しの照れ笑いと熱っぽい視線。電車に揺られながら耳許でくすぐったい柔らかな愛を囁くこと。はぐれないように繋いだ手がいつしか腕に絡まって目が合えば自然な動作で唇を奪ったり。そうして目が会えばまた、はにかんだりしてみること。


そういういわゆる普通の恋人同士がいとも容易く手に入れる幸せや夢を、俺は鬼道に与えることも受け取ることも出来ない。




(鬼道も年頃ならそういうことしたいだろうに)

未だ熱籠る体を肌触りのよいタオルでがしがし拭いて、鬼道が用意したであろう服に腕を通す。多分俺の濡れた服は洗濯機にぶっこまれたんだろう。背丈があまり変わらない鬼道の服を着ればふわりとやつの香りがしたが気付かないふりをする。そのまま脱衣場を出れば未だ濡れたままの鬼道が立っていた。自分が先に入ればよいのに俺に気を使って譲ったのだ。頑固だから俺が譲ろうとしても聞かないのはわかっているのでその好意に甘えたのだが。
「お先に」と軽く頭を下げれば「俺も浴びてくるから先に部屋に上がって待っていてくれ」と言う。軽く頷いて鬼道の部屋に向かった。最初こそあまりの広さに迷ったりしたがこうも何度も来ていると流石に覚えているもので。見覚えのある扉を開けばいつもどおり片付いているが適度に物が散らばった鬼道の部屋だった。全体的に白っぽい家具に増えたトロフィーやら賞状やらたくさんの写真。サッカーの雑誌は小難しい本の下に敷かれている。そのひとつひとつが今の鬼道を作っているようで思わず微笑んだ。

ふと部屋がいつもより暗いことに気がついてベッド側にある大きな出窓を見る。いつもたくさんの光を部屋に取り入れるそれだが今日のような土砂降りだとそうはいかなかったようで向こうに広がるは重々しい灰色の空と窓を叩く雨音。その湿った空気に近づこうとベッドに乗り上げる。まっさらなシーツに身を沈めれば雨と一緒にどこかに降り注いで地下に溶けてしまえそうなしょうもない考えが浮かぶ。そうしたら楽なのかな、とか湯にふやけた体を丸めながら先程の続きを考える。




「好きだ」という言葉を重ねる度に疼く胸は幸せだけ訴えてるのではないことをお互いに知っていた。それは余りにも当たり前すぎて口に出すこともないから確認することもない。ただなんとなく、俺たちはいつこの関係に終わりがくるのだろうと漠然とけれど確かに存在するその瞬間を見据えていた。
俺たちは想い合うことを喜ぶにはいつだって苦しくて、願うのは「どうか周りに見つからないように」のひとつだけだ。
心の底から笑えるような幸せはない。恥じらいながらも周りの祝福を浴びる、そんな幸福な瞬間などありはしないのだ。当たり前のことを忘れるはずもないがいつもふとしたときに思い知らされてその度にいつも悲鳴をあげる心臓はまるで学習してない。知ってるはずなのになあ、このまま幸せが続くことなどなくていつかは別れることを。そして今を一時の迷いだったと過去にすることを。
もし鬼道が夢から覚めて俺を手放すときが来たら笑って手を振らなくてはならない。泣きついて未練がましく愛を囁くことなど出来はしない。生殖機能を持たず鬼道を受け入れる床がない俺には愛の終着点を持たないから。プラトニック・ラブ?馬鹿なことを言うな。鬼道には正統な跡継ぎが必要で、そうでなくとも恋愛というのは肉体欲求に美しい名前をつけただけのもの。目的が果たせない愛など愛に成れないのだ。つまりは「幸せ」というのは俺が身を退けば簡単に手に入る。



(そんな答はわかりきってるのに)









「何か小難しいことを考えているだろう」


唐突にそう投げ掛けられて意識が浮上した。その声の主を振り返れば普段のゴーグルを外し下ろしたドレッドは既に乾いた状態でこちらを見つめていた。どうやら随分長い間考え込んでもしかしたら寝ていたのかもしれない。鬼道の眉を下げて笑う姿は俺の好きな顔のひとつで、だけど今はどうにも直視出来なかった。だって何にも隔たれないその剥き出しの炎の瞳に俺の愚考を見透かされてしまいそうだったから。そうなるぐらいならその炎で燃やしきってほしい、どろどろに溶かされて最期は灰になりたい、鬼道の熱視線でなら本望。なんて俺は鬼道の目線から逃げるくせに考える。



「不動?」


何も言わずに目線を逸らす俺にずいっと距離をつめられて目線を合わせようと顔を寄せる鬼道。その手は湯上りの熱を帯びたまま俺の頬に触れて目尻を親指の腹で擦ってくる、優しくてマッサージでも受けているみたいだ。目を閉じて鬼道の指使いだけを感じる。ふ、と吐息が耳朶を掠めた。
「何かあったのか」


空気の割合が多い囁くような声色で紡ぐ鬼道の言葉はどこまでも優しい。ふるふると首を振ってシーツの波に飲まれようとすれば「こら。誤魔化すな」と手をひかれて半身だけ起こされる。そして俺を窓際に押しやると鬼道が乗り上げてきた。大きすぎるベッドでは狭いこともなく二人を乗せて僅かに軋んだだけだった。



「何を考えていた?」


「…別に」


頭を撫でられて振りほどく気分にもなれないからそのままにしておく。お互い熱いシャワーを浴びたからか体は火照って触れるところかしこ熱くて心地良い。微睡みそうになるが意識を手離せないのはもったいないからだ。鬼道と俺だけの空間なら手を重ねれば世界は急速に色付いて輝き、そしてほんの少しの照れ笑いと熱っぽい視線。耳許でくすぐったい柔らかな愛を囁くこと。繋いだ手がいつしか腕に絡まって目が合えば自然な動作で唇を奪ったり。そうして目が会えばまた、はにかんだりしてみること。そういういわゆる恋人同士のありきたりな幸せがいとも容易く手に入るから。どれほど渇望したかわからない。そしてどれほど諦めたか。鬼道の幸せは俺の幸せと思うにはまだガキで、かといってこの先に待ち受ける運命を知らないふりをするほど子どもじゃない。馬鹿じゃないって面倒くせーな。幸せを手放しで喜べない俺はまた曖昧な顔をして鬼道を困らせる、けどその顔がやはり好きでたまらない。ああ。



「…言いたくないのなら、言わなくてもいいが」


眉を寄せて溜め息をついた鬼道は俺の腕をとってこちらに引き込む。抵抗する気もないからあっさり腕の中に収まってやる。シーツはぐしゃぐしゃでも気にも留めない鬼道は後ろ抱きにした俺の項に唇を寄せる。生温い感触にむずむずしてこれは反抗しようと身を捩って振り返れば柔らかく微笑む鬼道と目があった。瞬間電流が走ったような心地。高鳴る胸の意味は多分最高に恥ずかしい類。





「難しく考えすぎるな。俺は今最高に幸せだから」




ちゅ、と軽い音がして柔らかな衝撃。受け止めたのは自分の唇でそのことに気が付いたのには僅かな間があってからだ。ぽかん、と動けないでいる俺に微笑んで頬を数回撫でるとまた肩口に顔を埋めるようにしてぎゅうぎゅうに抱き締められる。どうして、どうして鬼道は簡単に俺が欲しかった言葉の全てを言い当ててしまうのだろうか。じわじわと熱が上昇し胸がきゅうと悲鳴をあげ不覚にも鼻の奥がツンとして目頭が熱くなってそれから、それから。



鬼道のことばひとつで俺は世界を知り感情を知り幸福とほんの少しの後ろめたさを知る。
けれど今この瞬間だけは俺と鬼道は二人だけの世界に閉じ籠ってひとつになれるのだ。男と女とか恋とか愛とかプラトニックとか性欲とかそういうものじゃなくて、そこには俺と鬼道だけが存在する。
そこでは俺の幸せと鬼道の幸せは全くぶれることのなく等しいものになるからそれがきっと幸福というもので切なくて煌めくような渇望と諦めが込み上げるような愛しくてかなしいものだと知ったんだ。




「…俺も、幸せ。すっげぇ幸せ」



背中から肩口を埋め尽くす熱に本当に細やかな吐息を持って伝える。これほど口に出すのを躊躇った言葉はなかった。鬼道に届かなくても良くてただ吐き出したかったのだ。


それでも次の瞬間にはぎゅうと言葉はなく腕に力を込められる。
ああ鬼道は全てわかっていたのだ、って息を吐き出せば急速に微睡む意識。安心する人の心地好い熱を逃がさないようにもたれ掛かって俺は目を瞑る。











いつの間にか雨は晴れて眩しさに目を開く。雲の切れ間から溢れる光は窓枠に溜まった雨粒を光らせていた。
体を起こせば未だ起きない彼のドレッドが散らばっていてそれをなんとなく指に絡ませながら窓の外に目を向けた。


俺も鬼道もいわゆる普通の幸せを知り得ない。例えば町中で手を重ねれば世界は急速に色付いて輝き、そしてほんの少しの照れ笑いと熱っぽい視線。電車に揺られながら耳許でくすぐったい柔らかな愛を囁くこと。はぐれないように繋いだ手がいつしか腕に絡まって目が合えば自然な動作で唇を奪ったり。そうして目が会えばまた、はにかんだりしてみること。そういうことは出来ない。
けれど「おはよう」と一番に笑いかけること。シーツの中で足を絡ませること。そういう些細な幸せを俺は見つけた。鬼道と一緒に。










んん、と鬼道が身動ぎをした。次の瞬間には開かれるだろう瞳に「おはよう」を伝えようと俺は息を吸う。






end






星屑/とりみさんから




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