※人魚不動と人間鬼道
※なんか鬼道さんが鬼道さんじゃない
前に一度だけ、人間の男の子を見たことがあった。その男の子はじっと海を見つめていて、砂浜に座ったままちっとも動こうとしない。俺は初めて見た人間への好奇心から少しだけ、その子に近付いた、その時だった。
気持ちが先走りすぎたか、ぱしゃりと尾ひれが音をたてた。その男の子は首をこちらに向ける。ばっちりと目があってしまった。まずいと思い慌てて海の中へと引き返す。男の子がなにか言った気がしたが、そのまま垂直に海底を目指した。
俺の網膜にはその時の真っ赤なルビーのような瞳がずっと焼き付いたままだった。
「…」
そんなのはもう何年も前の話だけど、あの男の子のことは鮮明に思い出せる。俺はどうやらあの男の子に恋をしてしまったようだった。
あの男の子にもう一度会いたくて、危険だけど何度も海の上に顔を出した。結局一度も会えたことはなかったけれど。
ある日、何故お前はそんなに海上へ行くのかと訊ねられた。会いたい人がいるんだ、そう言うと相手は眉間に皺をよせて言った。
「俺たちの声は人間を殺してしまうんだぞ」
そんな事。そんな事知ってるよ。ただ見るだけでいいから、もう一度会いたい。
キッと相手を睨み付けて、また海上を目指して上がっていく。真っ暗だった周りがだんだん明るく変わっていく。今日は会えるだろうか。上に近づくにつれて、心臓の音はばくばくと煩くなっていった。
「え…?」
どくんと大きく心臓が跳ねた。浜辺に人の影が見えたからだ。
その人は砂浜に腰をおろしてじっと海を見つめている。ちらちらとあの時の光景と重なる。少しだけ彼に近付いてみたくなって、ツイと水をかいた。慎重にかいた手があの時と同じようにぱしゃんと音をたてる。彼はバッとこちらに首を回した。彼はやっぱりルビーの瞳のあの子だった。再び会えた喜びと驚きで胸がいっぱいで、暫く動けなかった。
「……」
ザバザバと水の音がする。その音にはっと我に返ると、彼が海に入って追って来ていたのだ。
「待ってくれ…!」
「お前はあの時の人魚だろう!?」
びくりと体が震えた。彼はあの時の事を覚えていてくれたのだ。俺はゆっくりと彼のほうへ近寄った。目の前には、ずっと焦がれていた彼の顔がある。どうしよう、心臓がはち切れそうだ。
「よかった…、また会えた」
綺麗なルビーを細めてふわりと笑った。ああまた心臓が加速する。
「…お前は、昔この海で会った人魚だろ?」
こくん、と頷いた。
「そうか、よかった。…お前に会いたくてあの浜辺で待ってたんだ」
毎日…俺もお前に会いたくて海から顔を出したよ。そしてまた、こくんと頷く。
「…名前を教えてくれないか?」
……名前?そこでふと仲間の声が蘇った。
『俺たちの声は人間を殺してしまうんだぞ』
そんなの、駄目だ。絶対言えない。ふるふると首を横に振ると、何故だ?と悲しそうに眉を寄せた。
「……人魚の声が、人を殺してしまうからか…?」
ずきんと胸が傷んだ。目線を彼から外してゆっくりと頷いた。
「……一目惚れ、だったんだ」
彼の口からぽつりと言葉が零れた。へ?と聞き返すように首を傾げた。
「…あの日、お前を一目見たときから…好きだった」
「…っ」
危うく声に出すところだった。そんな、俺もお前のことずっと想ってた。
ぶんぶんと首を縦に振ると、彼はすごく嬉しそうに微笑んだ。二本の腕が伸びてきて、ぎゅうと抱き締められる。あぁやばい、凄い幸せだ。
「…有人って、呼んでくれないか?」
有人、それが彼の名前。そうか、俺はまだ名前も知らなかったんだ。
俺は首を横に振った。それは出来ないと。
「お前だけが俺の名前を知っているのは少し卑怯だろ?」
耳元でクスリと笑われた。息がかかって少しくすぐったい。それでも俺は頑固に唇を閉じていた。すると有人は、はぁと溜め息を吐いて、さらに口元を近付けて言った。
「お前の声が聞いてみたいんだ」
「……」
本当に、いいのだろうか。
俺は首を横に振るのをやめた。すぅ、と一度深く息を吸って、そしてゆっくりと頷いた。
心臓が、ばくばくと高鳴る。有人の心臓も俺と同じくらいばくばくしてる。俺は頑なに閉じた唇を静かに開いた。
「 」
凾の子は海に解けて消えた