(先生と高校生)









それはいつも唐突にやってきては俺を苦しめる。まさか今日があの日だったなんて、誰が予想出来ただろうか、いや出来ないだろう。
目の前に広がる予想外の光景に俺は思わず足を止めてしまった。

ほぼ毎日くぐる、学校の正面にかまえる大きな門。その前にはきっちりと制服を着て、その袖に腕章を着けた生徒会や風紀委員の奴らがずらりと並んでいた。そして度々、指定外の靴下やシャツを着た者、不自然な髪型をした者に反則カードを渡している。

そう。なんと今日は年に数回ある服装・頭髪検査の日だったのだ。
いつもは新学期早々にあるのに今年は無かったからラッキーだと思って油断していた。まさか、入学式が終わって少し学校に慣れたかな?っていう頃に敢えてこれをやるなんて。なんかこの時期って、調子に乗った1年がそろそろ一番上のボタン開けようかなとか、制服を着崩し始める頃だろ。ああほら、さっきから微妙に制服を着崩して、まだ使い始めの綺麗な鞄を持った1年が続々と検挙されてるじゃねえか。かわいそうに。

(いや、俺も全く人のこと言える立場じゃないんだけど。)

一列に並んで1枚1枚反則カードを手渡されている違反者たちを遠目で見ながら1歩も動けなかった俺は、片目をしっかりと隠してしまう程の重たい前髪を摘んで溜息をついた。
実は過去に、この前髪に関しての反則カードを2つももらってしまっていた。このカードが3つ貯まれば指導室で何らかのペナルティ(噂によるとかなりキツイらしい)と指導を受けることになっている。つまりこのままだと、今日で3つ貯まることになってしまうわけだ。

「遅刻すりゃよかった……」

朝弱い俺が珍しく、すっきり起きられた!と思ったらこうだ。そっと今まで見ていたものに背を向ける。
こうなったら1回帰って出直すことにしよう。そしてアイツらがいなくなった頃にゆっくり堂々と門をくぐればいい。
よし帰ろ、と右足をしっかりと踏み出したその時だった。「オイ」と突然誰かの不機嫌そうな声が上から降ってきて、更にその声の持ち主であろうソイツは、あろうことか俺の頭を鷲掴みにしやがった。

「!?なにしやがん…」
「こらクソチビ。どこ行く気だよ」
「っわ、みなみさわ…!」

どうせ浜野とか浜野とか浜野とか、そこら辺の奴らだろうという俺の推測は、あっさりと裏切られてしまった。まさかの人物の登場に思わず顔が引き攣る。というのも俺はこの人がかなり苦手なのだ。

「そんな嫌そうな顔すんなって」

楽しそうに笑いながら前髪をサラリと横に流した南沢は、俺のクラスの物理の担当教師だ。
今どきの女子高生が好きそうな抽象的な顔をしており、モデルをしていると言っても頷けるほどに整っている。そのルックスのためか女子にもの凄く人気があり、見かけた奴の話によると、バレンタインの日はそりゃもう凄いという言葉でしか表せないほどらしい。あとは卒業式で告白して散っていく女子の数は毎年3桁にもなるとか、南沢のファンクラブの会長(?)と南沢はデキているらしいとか、そういった、漫画か何かかと思うような噂が絶えない。
今も、もしかして南沢ファンクラブの女子共なんだろうか。殺気や羨望などが入り混じった、じっとりとした視線が全身のあちこちに痛いくらい突き刺さっていた。

「忘れ物したから帰るんです。…だから離せ」
「帰るって馬鹿か。もうすぐHR始まる時間だぞ」
「それまでには帰ってこれます、多分」

頭を掴んでいた手を払ってくるりと踵を返した。そして今度こそ帰ろうと、先ほどより強く右足を踏み出したその時、今度は腕をしっかりと掴まれてしまった。そしてその腕を強く引かれて、一瞬よろめいた俺を南沢は右腕でヘッドロックすると、そのまま門の方へと歩き出した。
ざわめく生徒(主に女子)の殺意のこもった視線に耐えられるほど強くない俺は、離れようと本気で抵抗してみるが、更に頭をしめる力が強くなるばかりで少し泣きたくなった。

「も、帰らね、から、はなせ…っ」
「まあまあいいから、取り敢えず俺と一緒に一回門くぐろうぜ?」

楽しそうに俺を連れて歩く南沢の左手には、恐らく俺にとって三枚目となる反則カードが握られているのが見えたのだが、正直今はもうそんなことどうでもよかった。結局門をくぐるまで背中に視線を浴びていたのだがその間中、ただひたすら南沢のファンの女子に殺されませんようにと心の中で祈っていた。




それから晴れて三枚目のカードを手に入れてしまった俺は、放課後に物理の第一実験室に来るように言われた。さっき渡された三枚目のカードを眺めると南沢篤志のサインがあり、思わずぐしゃりと握りしめてしまった。
本当についていなかった。もしあの時いたのが南沢じゃなければ、俺は今頃家でゆっくりしているハズだったのだ。

南沢はなぜかやたらと俺に絡んでくるところがあった。
授業中は絶対一回は俺をあてやがるし、廊下ですれ違ったら絶対なんか(主に身長関連。自分もそんなにでかくない癖に)言ってくるし、今朝の出来事もそうだけど取り敢えず俺は奴のお気に入りなのだそうだ。たまにクラスの女子にそのことについて嫌味を言われるのだが、こちらとしては本当たまったもんじゃないのだ。
今日は朝の門での出来事を散々女子に、羨ましいだのムカつくだの私も頭触って欲しいだの、果てには関節的に触れるとかなんとか言って頭を触ってきた女子もいたが、身の危険を感じるようなことをしてくる奴はいなくてとりあえず安心した。



そうして迎えた放課後。浜野は散々俺を馬鹿にした後速水と二人でさっさと帰っていった。他のクラスの奴らも帰って一人になった教室で、ぼーっと時計を眺める。確か五時には来いと言われていた筈だ。そろそろ教室を出ないと、ここから実験室は遠いのだ。
実は八割ぐらい帰ってやろうかと思っていたのだが、残りの二割がそれを邪魔して、うだうだと行くべきなのか帰ってもいいのかと迷っていたらこんな時間になってしまっていたというワケだ。ああもうホントどうしよう。こうして悩んでいる間も無常にも動き続ける秒針をにらんで、今日一番の深いため息を吐いた。


「なんだ、倉間まだ居たのか?」

突然教室中に響いた声に、多分軽く一センチは浮いただろう、情けないがそれぐらい俺は驚いた。悲鳴が出なかったのはもはや奇跡だとさえ思える。なるべく平静を装いながらドアの方に視線を向けると、そこには、俺らのクラスの体育を受けもつ車田が立っていた。向こうもまさか教室にまだ人が残っているとは思っていなかったみたいで、少し驚いた顔をしていた。

「……生徒指導で呼ばれたんスよ」
「そりゃ気の毒なことだな。なんだ、カード三枚貯まったのか?」
「そうっす。で、帰ろうか行こうか迷ってて」

ちらりと時計を見たら長針は11の数字を指していた。軽く走らないともう間に合わない時間だ。

「あー……お前帰るのはやめたほうがいいぞ」
「え」

そこで車田の声色が変わったことに気づいた俺は、どことなく顔つきも真剣味を帯びたその男を見つめた。

「行かずに帰った奴らは皆後で死ぬほど後悔する。どうしてあの時自分は行かなかったんだ、と」「え……」

そう話す車田は確かに、何かをさせられて死ぬほど後悔している生徒を思い出しているようだった。一気にざわつき始めた心は、やっぱり行ったほうがいいんじゃないかと訴えている。鞄を持つ手に無意識に力が籠った。

「お前には後悔してほしくなかったんだが……」

その一言と車田のいつにない真剣な目は俺を実験室までの道のりを全力猛ダッシュさせるには十分だった。






乱れた息のまま駆け込んだドアの向こうには驚きの光景が広がっていた。

「はっ…なん、…えっ?」

指定された通り物理の第一実験室にやってきたのだが、中には誰もいない。生徒も、生徒指導の先生すらも。電気さえも点いておらず、この部屋が使われていないことなど一目瞭然だった。思いもよらなかった光景に、中に入ることも出来ずにドアのところで足が止まってしまった。
もしかしてここは第一実験室じゃないのかもしれないと思い入口のところに提げられているプレートを確認するが、そこにはきちんと物理第一実験室と記されていた。
じゃあもしかして自分の聞き間違いとか?物理じゃなくて化学の方だったか?それとも第二?……いや、自分は確かに南沢に『五時に物理の第一実験室に来い』と言われたのだ。

「南沢…もしかして、騙された…?」

思わず口から零れた独り言は、自分以外には拾われることなく、静かな空間に溶けて消える筈だった。

「だれがそんな嘘つくかよ」
「っわ!?」

先ほどの言葉を拾った人がもう一人、いた。いつの間にか俺の背後には腕を組んでこちらを見下げる南沢がいた。
せっかく落ち着いてきた心臓だったのに、再びばくばくと激しく動くことになって、なんだか申し訳ないと思った。おそらく今日一日で二、三日は寿命が縮んでしまったんじゃないだろうか。

「え、だって他の奴らは…」
「他の奴らは多目的ホールで指導を受けている」
「……はあ」

中に入れと促されて、南沢が実験室の引き戸を静かに閉めると、さっきまで誰もいなかった実験室は俺とこの人の二人きりの空間に変わってしまった。この人と放課後の実験室に二人なんてシチュエーション、女子ならばきっと泣いて喜ぶのだろうけれど、俺はあいにくなことにこれぽっちも嬉しくなかった。寧ろかなり気まずくて無言のまま壁にあるだろうスイッチを探る。それにしてもどうして俺だけが別室に呼ばれることになったのだろうか。

「…せんせー何で俺だけ別室なんすか」

ぺたぺたと壁に手を這わせてスイッチらしき出っ張りを探るが中々見つからない。確かここらへんにあったと思ったのだけれど、違うのだろうか。

「お前は特別指導を受けるんだ」
「……特別指導、」

果たしてそんなのあっただろうか。
遂に壁のスイッチは見つからなくて、隣に立っている南沢に聞こうと見上げてはっと息をのんだ。思っていたより体の距離が近く、見上げた20センチほどのところに顔があって、何を考えているのかわからない表情でこちらを見つめていた。

目を逸らし損ねたと思った。
南沢は何か言うでもなくただ無表情で、俺はどうしたらいいのか分からず、しかしここで目を逸らすのは負けた気がするからこちらもまた相手の目を見つめ返す。だから俺は気付かなかった。俺の方に静かに近づいていたものの存在に。

「っ!」

壁についたままだった右手は、そっと近づいてきていた南沢の左手に捉えられてしまい、その一瞬、俺がひるんだ隙に一気に距離が詰められる。
多分これを本当に目と鼻の先と言うのだろうな、なんて、このよくわからない状況の割に冷えている頭でぼんやりと思った。

「倉間」

どこか切羽詰まったような、掠れた声で俺の名前を呼んだ。

は、と短く吐いた息が俺の唇をかすめる。
そっと右手が俺の頬を撫でて、ゆっくりと近づけてくる顔。そして。

「!!」

唇に柔らかいものが押し当てられた瞬間、俺は思い切り南沢を突き飛ばして部屋から飛び出していた。






つづく?

thanks:3gramme.

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