scene 6.狂い始めた戯曲
凍てつく空気。重さを増した酸素、二酸化炭素、窒素、諸々の物質が身体全体にのしかかってくる。錘をぶら下げているような、そんな感じがする。
大好きなあの碧眼は今、初めて見る色をしていた。冷たく、暗い色をしていた。
まずい。
直感が告げる。
「じゃ、俺は帰らせてもらうぜ」
そんな私を置いて、ザックスはいつもと変わらぬ足取りでクラウドの横を通り過ぎていく。クラウドはそれを相変わらずの冷眼で見送った。
先ほどまであれほど会いたいと思っていたのに。飲み会に誘うなとか、思っていたのに。
今は目を合わせることすら恐ろしい。
クラウドの冷眼が私を捉えた。刹那、ビクッと身体が震える。その目の先にあるものを、見てはならないものを、見てしまった気がした。
震える私をよそに時は流れ、クラウドは感情の一切を排除した目で見つめながら歩み寄ってくる。
逃げてしまえれば、どれほど楽か。
この身体が動けば、どれほど楽か。
彼が私の右手首を掴んだのと、言いようもない絶望が身体全体を満たしたのはほぼ同時だった。
*** 掴まれてからは、彼の名前と「離して」の二言しか言っていなかった気がする。
クラウドは私を引っ張ってマンションに入り、無理やりエレベーターに乗せ、7階まで上がった。エレベーター内でも手は離されず、会話もなかった。
まさに、恐怖の時間。
ドアが開いて靴を脱ぐときすらも手は離されなかった。懸命に脱いで、何とか部屋にあがる。
引っ張られる。掴まれている右手首の先にある手の感覚は無くなりかけて。
どうして、こうなったんだろう。
私はどうしたらいいのだろう。
謝る?
事情を話す?
それで彼は分かってくれるのだろうか――。
「きゃっ!」
急に感じた引力に抗えず、フローリングに倒れ込む。
何が起こったのかと振り返れば、クラウドが無表情で私を見下ろしていた。その瞳は、本当の本当に何の感情も宿さない――まさに、無だった。
「…クラウド……」
「あれは?」
「あれ……?」
彼は怒ると極端に言葉数が少なくなる。分かっている。
なのに、その事実が果てしない恐怖を生んだ。
「あれ、は……」
ゆっくりと近づいてくる彼から逃げるように後ずさる。も、座っているからか、はたまた恐怖で身体が動かないのか、少しずつしか下がれない。
「違うの、あれは、私……っ」
「違う? 何が?」
「私は、そんな気なかった!」
涙が止まらない。
恐怖が、ニタニタ笑っている。この先の展開に光は望めないと言うかのように。
「嘘吐くな」
低い、地を這うような声だった。軽蔑するような声だった。
聞いたことのない、声だった。
身体が遂に動かなくなる。1ミリも動く気がしない。
硬直した私から目を離したクラウドの色白な指がテーブルの上を滑る。ゆっくり、ゆっくりと滑り、何かを掴んだ。
仕事場へ行く前にしまい忘れたカッターが今、彼の手の中にある。
カチカチカチ……という音だけが、静寂の包む部屋に響き渡る。つい最近買い替えたばかりのそれは光を反射し、恐怖に拍車をかけた。
「俺が遅くなるからと、油断したか?」
「だから、違うの!」
「言えなかった悩みは、これのことか?」
「私の話を聞いて!」
私がそう叫ぶと、クラウドはゆっくりと一度瞬きをする。
今しかない。
深呼吸をして、意を決する。
「私が好きなのはクラウドだよ。今も昔も、変わらない」
「……」
「さっきのは、ザックスが……いきなりしてきたの。逃げられなくて、その……」
「……」
「ごめんなさい……。でも、私が好きなのはクラウドで、尽くそうと思える相手もクラウドなの」
いつの間にか、震えは止まっていた。恐怖も去り、じっとクラウドを見つめることができた。
私の気持ちを、話せばきっと。
願いを込めて、言葉を紡ぐ。
「この人の為なら何だって出来るって、思える相手も……クラウドなんだよ」
神様がいるならどうか、明日から普通に過ごせますように。
願いながら私は、彼の答えを待った。
「何だって、出来るんだな?」
「うん」
「なら……」
――神様、どうして。
あまりに残酷な現実を認めたくなかった。
カッターが、向けられる。
それが語る事はただ一つ。
「俺に、殺されろ」
――前に見た本の中に似たシーンがあった。本当によく似ている。
読者としてそのシーンを見るのはハラハラして、好きだった。
でも、まさか当事者になるとは思いもしなかったんだ。
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