愛すべき何でもない日々
オーブンの中でくるくると回るガトーショコラを眺めながら、澪崎琉華は数時間後に思いを馳せて胸を躍らせた。
アイドルや作曲家として多忙な毎日を送っている仲間達全員の予定が合うのはなかなかない話だ。そんな中ようやく全員の予定が合ったため、じゃあ集まろうかという話になったのはつい数日前のことである。
はやる気持ちとは裏腹に相変わらず同じスピードでくるくると回るガトーショコラから目を離し、琉華はリビングの壁に掛けてある時計を見る。どうやら、まだ皆が来る時間までは余裕があるようだ。
琉華はまだ焼ける様子が見られないそれを放置して、今度はリビングのセッティングに取りかかった。
テーブルの上に置きっぱなしだった譜面を手に取ったと同時に部屋に響き渡るは、インターホンの音。
(まさか私、時間間違えた…?)
ここ数日の間に残っていた仕事を片付けたり急に来たリテイクに対応していたせいで、予定が色々頭の中でごちゃごちゃと混ざっていたのは確かだ。
もしかしたら、もしかするかもしれない。
譜面をとりあえず近くに置きっぱなしにしていたバッグに突っ込んで隠し、琉華は玄関に向かった。
パタパタ……いや、最早バタバタとスリッパを鳴らして駆け込んだ玄関の扉を慌てて開ける。
「……あれ?」
扉の先にいたのは予想外の人物だった。いや、“皆”の中には入っているし、ある意味予想通りなのかもしれないが。
真面目で時間厳守の彼がこんなに早く来ることが、ずっと彼のパートナーとして隣に立ち続けている琉華にとって予想外だったのだ。
「すみません、急に来てしまって」
「あ、いや、いいけど……何で?」
「君に会いたかった、は理由になりませんか?」
テレビの向こうで見るのとはまた違う少し悪戯な笑みを浮かべながら彼、一ノ瀬トキヤは言った。
理由にならないわけではないが、理由にされてもまた困る。
「とっ、とにかく、入って。まだあまり準備出来てないけど…」
部屋の掃除はとうに終わっていて、あとはパーティーのためのセッティングを残すだけだ。とりあえず彼を家に上げることは出来る。
早起きして掃除をした今日の自分を褒めながら琉華はトキヤをリビングへと案内した。
彼をソファーに座らせてから急いでキッチンに戻り、お湯を沸かす。
アイドルであるトキヤの日々は琉華のそれよりもハードだ。バラエティーやドラマの撮影もさることながら、雑誌の取材などなどの仕事も舞い込んでいるらしい。最近寮内で彼の姿を見かけない理由はここにあるのだろう。
パートナーである琉華は仲間内でも比較的トキヤと顔を合わせている方ではあるが、それでも最近はお互い忙しいせいでメールのみとなっていた。
そのせいか、妙に緊張する。慣れていたはずなのに、付き合いたての彼女さながらの緊張が琉華を苦しめている。
いつも以上にドキドキしながら珈琲を淹れる支度をしていると、次の瞬間背後から優しく包み込まれる。
「……今日のトキヤ、何か…」
「何か?」
「…何か、甘えたがり」
ボソッと口にするとトキヤは耳元でクスクス笑った。
「そうですね、そうかもしれません」
言って、トキヤが抱き締める力を強めたと同時に加速する心臓の拍動。そのせいで、いつになくスキンシップの激しい彼に疑問を抱くものの、それを口にする事は出来なかった。
そんな琉華の状態などつゆ知らず、トキヤは相変わらず耳元で囁くように言葉を続ける。
「君は、私が何故こうして予定より早く来ているか……分かりますか?」
「…?」
彼の問いに琉華はただただ頭上に疑問符を浮かべるばかりだった。
会いたかった。それだけでは早く来る理由として不十分ではないかと何となくだが思ってしまう。
トキヤの場合、いくら会いたいと思っていたとしても必ず前もってメールや電話をくれる。どんなに気持ちがはやっていたとしてもちゃんと連絡はくれるのだ。
だが、今回はそれがなかった。
「本当に急な用事とか…?」
「…だとしたらこんな暢気になどしていられないと思うのですが」
「じゃあ、どうしてもすぐに伝えたい曲のアイデアがあったとか?」
「……はぁ」
苛立ったようにため息をつかれてしまい、琉華はすっかり思考が停止してしまった。
何が彼を突き動かしてここに来させ、そして今何が彼を苛立たせているのか。琉華にはさっぱり分からなかった。
「まったく、君は本当にどうしようもない鈍感ですね」
ため息混じりの彼の言葉を聞いた次の瞬間、耳に熱を感じる。
それが舐められているからだと気付くのに、そう時間はかからなかった。
「ちょっ、トキヤ…っ、な、何して…っ」
「君が鈍感だからです……」
低く甘い声で不条理な理由を述べてから、彼がまた再び舌で耳を弄ぶ。時には甘噛みまでされ、それに思わずびくつけば満足したようにクスッと笑みをこぼされる。
琉華はただ、うっかり変な声やら嬌声めいた声が出ないよう我慢するばかりだった。
「私と会えなかった二週間、君は何をしていたのですか?」
「何って……別に、」
わざとらしい疑問系でトキヤが聞いてくるのに、琉華はそう答えることしかできなかった。彼が話す度に吐息がふわっと耳にかかるせいで、ドキドキのあまり言葉がうまく口から出てくれない。
それに、自分は何ひとつ疚しいことなどしていない。巷で聞く恋人同士のいざこざの原因に多い“他の男が出来たんだろ”といった疑いをかけられてしまうような愚行は断じてしていない。
少なくとも自分ではそう自負はしていたものの、一ノ瀬トキヤにとっては少々違うように見えたらしいと気付いたのは少し先の話になる。
「…レンに半日連れ回され、音也の買い物に付き合い、翔と一緒に子供と戯れ、四ノ宮さんと2人きりでカフェテリアに行き、聖川さんの稽古を見に行った」
「っ!?」
「朝は愛島さんに、手の甲にキスをされていましたね?」
「な、何で……それを?」
「さぁ、何ででしょうね?」
またわざとらしく言われてしまい、そんなの分かんないよもう!とつい叫びたくなる。が、この状況ではまともに口も利けないので我慢するしかない。
トキヤが言ったことは確かに全て事実だ。が、それが疚しいことかと訊かれたら琉華は全力でそれを否定できる自信があった。
半日連れ回されたのは少し前にちょっとした貸しをレンに作ったので、そのお返し。
買い物に付き合ったのは春歌に日頃の感謝を込めてプレゼントをしたいと言う音也に、女子の観点からアドバイスをしてほしいと言われたから。
公園で子供と遊んだのは翔と子供たちが楽しそうに遊んでいるのを見てつい加わってしまっただけ。
カフェテリアに行ったのは那月がスイーツの美味しい店があるのでぜひ連れて行きたいと言うから、お言葉に甘えた。
稽古を見に行ったのは、舞台が好きなのだと話したら真斗がわざわざ見学の許可を取ってくれたので行っただけで。
手の甲にキスは、一見すると疚しいことかと思われるが断じて違う。何と言っても相手はあの愛島セシル。お国柄そういうことするのかなと理解するようにしているし、セシルもまさか略奪しようなんて考えまい。彼はトキヤの恐ろしさを身を以て知った人間の一人なのだから。
「まったく……どうやら君は私を妬かせるのが好きなようだ」
「妬かせる……? まさか、トキヤ…」
嫉妬したの?
そう言葉を続けようとして……出来なかった。
「ん……っ…」
「ひゃっ……」
首筋を這う舌の熱が、言おうとした言葉を琉華の脳内から消し去っていく。我慢していたはずの声も思わず出てしまった。
いきなりやってきたのも、スキンシップが妙に激しかったのも、嫉妬していたからなのだろうか。琉華はそんなことをどこか遠くで思いながら、再び襲ってきた熱に体を震わせる。
「……先程私は『君は、私が何故こうして予定より早く来ているか分かりますか?』と訊きましたが」
彼の低く甘い声がふやけかけた脳内に響き渡る。
「君は答えが分からなかったようなので……特別に正解を教えましょう」
「……?」
一体何なのだろうと疑問に思う琉華の目の前にトキヤが回り込み、そしてその深い紺色の双眸でじっと見つめてきた。テレビでは見られない妖艶で蠱惑的な笑みが、琉華の思考回路を破壊していく。
「正解は……会えなかった二週間分あなたを愛するためです」
そう言って当たり前のようにトキヤが口づけた瞬間にはもう、琉華の頭の中には彼しかいなかった。
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