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見エナイ触レナイ聞コエナイ
崖の上に青少年が佇んでいた。
何処かで見たことがあるような光景だった。
文次郎は一瞬、その青少年が小平太かと思ったがその考えはすぐに否定した。
小平太にしては髪が短い。
暗闇でよく分からないが、青少年はボサボサの髪を結い厚手の襟巻きを靡かせながら、力なく大海原を眺めている。
文次郎は青少年を小平太よりもずっと身近な存在に感じていた。
だが、いくら記憶を探ってみても目の前の正体が誰なのか思い出せない。
「おい」
出来るだけ大きな声で呼ぶが、返事もなければ反応もない。
もう一度声をかけようと近づくと彼は涙を一滴流していた。
文次郎は何も言えず鉛のように動けなくなった。
顔ははっきりとは見えないが僅かな月明かりで見えた涙はそれから流れることはなかった。
ふいに先程まで微動だにしなかった青少年の口が開いた。
「この海に――の想いを沈めてしまおう」
波の打ちつける厳しい崖で呟いた小さな声なのに、なぜだか文次郎にははっきり聞こえた。
その言葉を理解した瞬間、青少年は海に身を投げた。
咄嗟のことで、文次郎は助けの手を伸ばすことも出来なかった。
悪夢から覚めた現実は思考回路が覚束ない。
悪夢は単なる夢のはずなのに、妙に現実味を帯びている気がする。
これも寝呆け思考なのだろうが、何故だか胸騒ぎがする。
文次郎は結局、六年い組長屋には帰らず学園内の木の上で一夜を過ごした。
小平太は変わらず自分の部屋で寝たのだろうか?
いや、きっと俺の事なんか気にしないでは組の部屋にでも行ったんだろう。
もしかしたら昨日仲良くやっていた伍年の部屋に邪魔したのかもしれない。
気にはなったが昨日の小平太の行動を目の当たりにしてから会いづらい。
出来ることなら暫く見たくない。声も聞きたくない。
きっとあいつは1人でいるのが嫌いだから自分がいなくても他の奴で代用するんだろう。
いつだってあいつの周りには必ず誰かがいて、あの笑顔を誰彼構わず振り撒いていたのだから。
そんな光景が嫌でも目に浮かぶ。
だから暫くは小平太と距離を置きたかった。
置いて自分の心の整理もしたかった。
幸運にも同室の仙蔵は暫くいない。
昨日、小平太と竹谷が学園に帰り着くよりも早く文次郎は自室に戻っていた。
その時に仙蔵からの置き手紙に気付いた。
その日の朝、仙蔵は依頼の仕事があるなんて何も言っていなかった。
置き手紙を置いたのだから、突然の使いなのだろう。
文次郎はニッと笑うと音も立てずに自室を後にした。
(騒動を予感する悪夢だ)
――騒動なんてこの学園じゃ日常茶飯事じゃねえか。
(喧嘩や争いなど、人間関係がギスギスする前触れだぞ)
――そんなの予算会議でしょっちゅうじゃねえか。俺と各委員会との人間関係なんて当の昔に崩壊してんだよ。
(行く先々に難事が待ち受けている)
――俺は、迷信なんて信じちゃいねえよ。
あの悪夢が、仙蔵の言葉が脳裏に響く。
でもそんな根拠のない言葉に耳を傾けようなんて微塵も思わなかった。
思わなかった、はずなのに――。
「もんじー。おはよう!」
い組教室横の廊下から小平太が声をかける。
だが耳を貸さず、まるで最初から聞こえなかったかのように本の文章を追う目を止めない。
「文次郎。お前、昨日は何処で寝てたんだ?」
(何処だっていいじゃねえか。)
思いはしたが決して口には出さない。
不審に思ったのか小平太が教室に入ろうとして内心身構えたが、タイミングよく授業開始の鐘がなった。
小平太は何か言いたそうな、少し寂しそうな表情で文次郎を見たがそれも束の間、慌てて自身の教室へと走って行った。
その後も授業が終わる度に厠や廊下で小平太に会った。
昨日は会いたくて探しても見つからなかったというのに、こういう時だけ悪戯に会うなんて胸くそ悪い。
文次郎を見つける度に小平太は声をかけてくる。
どんなに無視を試みても、一所懸命いつものように笑顔で一方的に話しかけようとする。
食堂ではいつもの定位置からわざわざ文次郎の座る席まで移動して、定食も殆ど残ったままだというのに1人で喋り続ける。
よくもまあ、そんなに長々と言葉を紡げるものだ。
明らかに「お前の声なんか聞きたくない」という態度でそっぽを向く。
いつもの小平太だったら、とうに文次郎のおかしな行動に苛立って怒るはずだ。
だが怒りもしなければ怒鳴りもしない。
ただいつものように、何事もないかのように明るく笑いながら喋るだけ。
それが逆に2人の距離を遠ざけているようで腹立たしかった。
本当は文次郎の方が見えない壁を作っているはずなのに、小平太はその壁をぶち壊そうとしない。
そんなの、文次郎の知ってる小平太ではない。
いつもの小平太ならとっくに本気で怒って怒鳴り散らしているはずだ。
――シノビであってシノビでない。人間であって人間でない。
――犬がどんなに願っても狼にはなれんのだよ。
ふいに仙蔵の言葉を思い出す。
もはや文次郎の目の前にいる恋人は、小平太であって小平太ではなかった。
隣人の話に無視をし続け、定食を完食すると早々に食堂を出た。
さっきまでの無言が嘘のように食堂のおばちゃんにはいつも通り「ごちそうさま」と礼を言う。
その間、小平太は急いで食事を流し込むようにして食べていた。
廊下を歩いていると早々に後ろから小平太の気配がした。
あんなに急いで食べて、よくも喉に詰まらせなかったものだと感心するが何も言わない。
さっきまであんなに騒がしかった小平太も珍しく黙って後ろを着いてくる。
学園の外れ、血天井で有名な用具倉庫の前まで歩く。
別にこの倉庫に用事があるわけではない。
ただ人気のない、誰も寄り付こうとしない場所まで来たかった。
倉庫の前で止まると、後ろを着いてきていた小平太が文次郎の袖を握ろうと手を伸ばした。
するとずっと小平太に背を向けていた文次郎が、小平太の方を向く。
それだけでなく、小平太の瞳をじっと見つめる。
小平太の口が小さく「文次郎」と紡いだ瞬間。
「ふざけんなっ!!」
いきなり耳を貫くほどの怒声が響いた。
「お前、大概にしろよ!」
「え…?」
文次郎のいきなりの怒声に小平太がビクっと怯える。
犬のように不安な表情で文次郎を軽く見上げるも、その行為自体が今の文次郎には苛立たしかった。
「いい加減に自立しろよ。周りに甘えるのも大概にしろ!いつまで経っても周りに依存していたら、立派な忍者にはなれないぞ。お前はなんでこの学園に来た?忍者になる為だろ?もし生半可な考えなら今すぐにでも忍者をやめちまえ。お前がそうやって周りに甘えてばかりだから…、長次も……」
本当は文次郎が小平太に依存していることは分かっている。
でも、それは忍者にとってはあるまじき行為。
自分を失いかねない。
文次郎も小平太も忍者を志してこの学園の門をくぐった者同士。
どんなに誓い合おうとも、いつまでも一緒にいられるわけないじゃないか。
依存の深海に沈む前に這い上がらなければ…。
「もんじ…」
長次の名前に小平太の顔が蒼白になる。
それでも震える手を文次郎の腕に伸ばそうとするが、逆に文次郎の手がバシっと叩きかわされてしまった。
そのまま文次郎はその場を走り去ってしまった。
「………」
小平太は何も言えずただ立ち尽くすしか出来なかった。
授業開始の鐘がとっくに鳴った後で教室に入った為、文次郎は教師に一言怒られた。
「すみません」と一言謝り、席に着く。
教科書を開くが頭にはさっぱり入ってこない。教師が何を言っているのかも分からない。
小平太はあれからどうしただろうか。
もう恋仲どころか仲間にすら戻れないかもしれない。
これで2人の関係は終わりだ…。
心の中で呟いた言葉だが、なぜか涙は流れなかった。
一方の小平太は動けずにいた。
文次郎の言葉が小平太の心に圧し掛かって立っているのも苦しい。
なんとか倉庫の壁まで行き、壁伝いに座り込む。
地面を見つめるように項垂れて腕も足も力が入らない。まるで自分の身体ではないみたいだ。
「もんじろ…」
大好きな彼の名前を小さく呟く。
文次郎の言う通りだ。自分はずっと誰かに甘えていた。
下級生ならまだしも上級生が周りの温もりに依存していた。
きっとみんな迷惑と思っていたに違いない。
もんじもいさっくんも仙ちゃんも留も優しいから私の我が儘に付き合ってくれていたんだ。
どうして今まで気付かなかったんだろ。
いつまで経っても皆に甘えてばかりだから、長次も死んだんだ。
――私が、長次を殺した。
そう気付いた時には全身の血の気が引いた。
そこから先は考えたくなかった。自分で自分が恐かった。
どうやって皆に謝れば良い?
どうやって長次に償えば良い?
分からない…。
「そうだ…」
自分ができる唯一の懺悔に辿りつくと、小平太は重い四肢に力を入れてゆっくりと立ち上がった。
い組部屋に帰るのは気まずかったが、必死になんでもない表情で扉を開けた。
当たり前だが部屋の主の文次郎がいたが、会計委員の仕事でもしているのだろう「ただいま」と声をかけても何も言わない。
文机に向ったまま此方を振り向こうとしない。ただ算盤の弾く音が部屋に響くだけだった。
少し寂しかったが今の小平太には都合が良かった。
文次郎には最初に伝えなければいけない。
後ろ手で扉を閉めるがその場から動かず小平太は話した。
「文次郎。急で悪いのだが忍務が入ったんだ。簡単な忍務だから私1人で大丈夫だろうって。何日掛かるか分からないが、すぐに行かないといけない」
そう言うと先程まで部屋中に響いていた算盤の音が止まり、文次郎は顔だけを小平太に向けてくれた。
「気を付けて行けよ」
「うん。…ありがとう」
相変わらず無愛想な顔だが、ちゃんと返事をしてくれた。
今の小平太には文次郎の短い言葉が嬉しくて苦しくて、泣きたくなるのをぐっと我慢して部屋を出た。
満月ではないのにいつにも増して月が明るい。
だがそれもすぐに暗闇に包まれるのだろう。
――一寸先のように。
月の光は文次郎と鍛錬をしたあの日のように明るくて、一層闇を濃くしているように思えた。
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