恨み怨まれ生きて逝く
何も見えない真っ暗な空間を七松小平太はひたすらに走っていた。後ろからは殺気を帯びた”何か”が怒鳴りながら追いかけてくる。
“死ネ” ”殺シテヤル”
止まってはいけない。止まったらその瞬間に殺される。
殺されたくない。ただ生きたい一心で必死に走る。額からは冷や汗が流れている。息をするのが辛いのにゼェゼェと荒い呼吸を繰り返している。
足の感覚なんて分からない。兎に角、追手から逃げなければ殺される。
ふいに感覚のなくなった足がもつれて盛大に転んだ。全身を地面に強打して痛かったが生死をかけた私にはそんな痛覚はどうでもよかった。早く逃げなければ。必死に立ち上がろうとするが今度は金縛りのように身体が動かない。全身を悪寒が走る。
後ろから首根っこを掴まれた。殺されたくないと無我夢中で暴れるが相手の腕力は信じられないほどに強い。無理やり振り向かされて”何か”が短刀を振り上げる。
ああ、私は死ぬのか……。
最期に相手の顔を己の瞳に焼きつけようと恐る恐る顔を上げると、その”何か”は苦無で何度も刺されたかのように血が流れていて皮膚もグチャグチャ、眼球も潰れて人相なんて分からなかった。
「小平太っ!」
長次の言葉に我に返る。
気付けばここは忍たま長屋の自分たちの部屋で私は布団に身を預けていた。見慣れた長屋の天井と、私を心配するように長次が見下ろす。
「…ちょうじ……」
何が起こったのか分からない。額からは相変わらず汗が流れ呼吸も荒い。起きあがる気力もなく、せめて心を落ち着かせるために汗ばんだ額についた前髪をのける長次の左手を強く握りしめた。
「…酷くうなされていたから心配した。落ち着かせようと触れると暴れるし、大丈夫か?」
「うん…」
部屋には自分と長次の二人しかいないことにひどく安心する。
ようやく落ち着きを取り戻し、ゆっくり起きあがるとそのまま長次に抱き付いた。優しい男はまるで壊れ物でも扱うような優しい手つきで背中を軽くさすってくれた。
「私、こわかったよ…」
ーー実習で殺した相手に殺されかけたから。
長次の小平太の背中をさする腕が強くなった。
小平太の殺めた相手は自分たちよりも大人だったが忍びではなかった。
普段は農家をしている数合わせの足軽だったのだろう。戦が近くなればそんな人間は沢山いる。忍者は情報収取が主であって戦闘員ではない、無駄な殺生はしてはいけない。
「…小平太があの男を殺さなければ、私は今頃死んでいた。あれは正当防衛だ」
「ああ、そうだな」
決して許される事ではないのに長次が罪を正当化してくれる。
そうだ、あの時、長次は珍しく深手を負っていた。そんな長次を斬りつけようとあの男は刀をふるおうとしたのだ。
だから長次を守るため小平太は無我夢中で暴れた。
傷を負い、なんとか逃げようとする男を捕まえては、男の息が絶えるまで何度も何度も苦無を刺した。
長次や文次郎が止めた時には小平太は全身赤に染まっていた。
(私はただ長次を守りたかっただけなんだ)
その為に見知らぬ男の人生を、男の大切なものを奪った。
あの男にだって守るべき家族がいただろうに。両親か?妻か?子供はいたのか?
まだまだ働き盛りなのに無残に子供に殺されて、大切な家族を残して、未練で成仏なんかできないのだろうな。
だから夢の中に現れて、せめてもの復讐に私を殺そうとしたのだ。
「…人生なんてそんなものだ。誰かを恨み、誰かに怨まれ生きて逝くものだ。この時代だから余計に」
時は戦乱の世だからこそ己の生まれた時代を恨み嘆くなとはよく言われたが、この世界こそが地獄なのではないかと思うことがある。
ああ、でも本当に地獄だとしても長次に出会えた奇跡を思えば……
暗闇の中に一つの希望を見た気がした。
⇒END