いつかは夢を諦めなければならない時がくる
忍術学園の離れにある庵(いおり)に年老いた老人と成人をとうに過ぎたでだろう男がいた。
老人は短い足を胡坐にし、湯呑の茶を啜っている。
対して男は俯き加減の目線で正座をし、畳を睨みつけていた。
静かだった空間にふいに老人が口を開く。
「潮江よ。お主が学園(ここ)を卒業して何年になるかのぉ」
「20年になります」
男が小さく答える。
それを聞いた老人、大川学園長は「ふむ」と頷き湯呑を床に置いた。
「もうそんなに経つのか…」
予想はしていたがもうそんなに月日が経っていたのかと内心驚いた。
目の前の男、潮江文次郎は少年の頃の面影をすっかり無くしていた。
「まさかあの頃、卵から孵りもしない小さな幼子がこんなに立派に成長するとは…誇らしくもあり寂しくもあるな」
潮江は未だ畳を睨みつけたまま大川の顔を見ようとはしなかった。
「あの時10歳の小さな子供が今では35歳か。通りでわしも年を取るわけじゃ。文次郎、覚えておるか?あの頃に初めてこの学園の門をくぐった時のことを」
老人が窺うように潮江を見やる。
初めて潮江は顔を前にあげ、老人を軽く睨んだ。
「結局あんたは何が言いたい?立て込んでた仕事を全部断ってまで此処に来たんだ。さっさと用件を言ってくれ。碌な用事じゃないのなら、俺は帰る」
潮江が鋭い目つきで言う間も大川は昔と変わらない薄笑のままで表情が読めない。
在学中嫌というほど何度もこの顔を見てきた。
それは決まって何か良くない、くだらない事を考えている時の表情だ。
とんだ無駄骨だと腰を上げようとした潮江に老人は小さく言った。
「お主、学園(ここ)の長(おさ)にならんか?」
「え?」
一瞬何を言ったのか解らなかった。
学園の長ということは即ちこの学園を取り纏める頂点のことだ。
(どうしてこの爺さんは俺に問うたのだろう。学園の教師でもなければ教育実習生でもない。忍びの知識しかない俺にいきなり…)
「どうじゃ?学園(ここ)の長になることは潮江、お前の夢じゃったのだろう。35歳ではちと若すぎるかもしれんが、お前はかけがえのない知識と経験を身に付けておる。自分の精神を信じてここらで夢を叶えてみてはどうかの?」
「ふざけんな…そしたらあんたはどうするんだ?」
潮江の質問に対して大川は相変わらず薄笑をするだけだった。
ただひとつだけ変わった所がある。
20年前は何かに付けて突然の思い付きをする迷惑爺さんが今は何かを含んだ微笑になっているということを。
この表情を見たのは今回が初めてではない。
昔、卒業式の日に一度だけ見た覚えがある。
「この年になるとどうも足腰が言う事を聞かんでかなわん。そろそろ長を引退して隠居でもしようかと思っとる」
「そっちの方が楓さんや如月さんとデートする時間が増えるしのぉ」と笑いながら大川が言う。
それは嘘なのだと潮江は気付いたが昔から頑固な老人だったので深入りはやめた。
何を言ったところでこの老人の意思を変えることなんて出来やしない。
「たぬきじじい…」と一言呟いて文次郎はその場で寝転がった。
片目で庭を見ると菖蒲の花が咲き誇っていた。
そういえば…菖蒲の花言葉はたしか―――
(あんたがどうするのか…賭けてやろうじゃねえか)
文次郎が内心呟くと大川に断りもなく眠りについた。
久し振りに食べる食堂のおばちゃんの料理は懐かしくて旨かった。
味は全く変わっていなかったが、やはり時間は流れているのだろう。
おばちゃんの長い髪は白髪交じりだった。
食堂を見回しても当たり前だが見知った生徒は誰もいない。
忍たま達も文次郎のことを学園長の知り合い、学園の部外者という視線で遠目に見ていた。
食事が済んで湯浴みもし、そろそろ寝るかと用意されていた客座敷で支度をしていると、学園長が呼んでいると見知らぬ若教師が知らせてきた。
「今度は何の用事だ?」
淡く蝋燭に照らされた庵の襖を開けて早々愚痴る。
大川はそんな潮江に対して特に気にせず酒を勧めた。
今宵は皮肉にも雲1つない満月だった。
忍者としては最高に最悪な天候なのだが、今は別に忍務をしているわけじゃない。
月の光は嫌いだが、お陰で庭の菖蒲がよく見える。
酒を飲み交わすには丁度良かったのだろう。
「先日、七松が来おったぞ」
大川がお猪口に酒を注ぎながら言う。
「あいつもわしが呼び出した。お前と違ってずっと笑顔じゃった。ふいに何か考え耽ってはおったが昔と変わらなんだ。あいつは少々豪快すぎる性格じゃが素直で明るい、優しい子じゃよ」
今日のように七松もこうやって大川と杯を交わしたらしい。
この場所で今日よりもずっと月の明りが小さかったが、あいつは獣のように視力が良い。
きっと夜だろうと菖蒲の花が見えたのだろう。
「あいつはわしが何も言わんでも表情だけで悟ったらしい。菖蒲を見ながら『信じる者の幸福ですか』と突拍子もなく言いおった。あいつの教養はどこからくるのか不思議でかなわん」
――信じる者の幸福、小平太はそう解釈したのか。
いや、もしかしたら学園長を気遣って言っただけなのかもしれない。
潮江も長い間七松とは会っていなかったが、あいつは豪快だが学園長の言う通り本当に優しい奴だった。
細かいことは気にしない癖に、仲間の些細な変化にはいち早く気付き身を案ずる。
身体的な異変にでなく、精神的な異変に、だ。
だから学園長の心理も直感的に悟って、上の上を言ったのかもしれない。
「お前はお前の好きにすれば良い。だがな、男たるもの年老いても志を高く持ち続けなければいけない。家族を守るため、一族を守るため、大切な者を守るため、若い頃以上に意気盛んでなければならない。世間には、こんな白髪頭の老人の心の内など分からんじゃろうが」
「分かりたくもねえ」
文次郎はそう小さく答えると残りの酒をぐいっと飲み込んだ。
大川と二人きりの宴をして、どのくらい経っただろうか。
今後の学園の長については丁重に断って、忍務に没頭する日が何日も続いた。
そんな文次郎の元に学園から一通の文が届いた。
大川平次太秦が亡くなった、と。
一行だけの簡素な文だったが、この中に葬儀、告別式等の日程が暗号で記されていた。
『潮江氏には是非参加してほしい』という言葉も添えてあった。
――行ってはいけない。行ったら戻れなくなる。
そう文次郎の心中のなにかがそう警告した。
文次郎はその文を破り捨てると、次の忍務先へと向かった。
「まさかもんじが学園長の座から逃げるなんてね」
学園から文が届いたあの日からもう5年も経ってしまった。
文次郎も小平太ももう40歳になってしまった。
小平太も年相応に老けたが、それでもまだ忍たまの頃の面影は充分にあった。
文次郎とは違って愛想の良い笑顔を向けるから、見る人によってはまだ若く見えるかもしれない。
「逃げてなんかねえよ」
言いながらも内心、罪悪感はある。
忍務といいながら学園に近い地方を避けながら旅をしていった。
その結果、陸奥まで来てしまった。
此処まで来れば、文次郎を知る者は誰もいない。
この地で残りの人生を全うしようと思った数日後に、どうして分かったのか旅姿の小平太が訪ねて来た。
「お前はどうして俺が此処にいると分かったんだ?」
文次郎が話題を変えるように聞くと、如何にも小平太らしく「野生の勘」と笑った。
「なんで学園長の葬儀、行かなかったの?ちゃんと文は届いたんだろ?」
「仕事で忙しかった。それだけだ」
「ふーん…」
余りその話題には触れてほしくない。
そう文次郎の心境に小平太は気付きはしたが、どうしても言わなければならない事があった。
気付かない振りをして、話を続ける。
「学園長の遺言があるんだ。次の学園の長には潮江文次郎を使命するって。今のもんじの姿を見たらもう無理そうだけど…」
言いながら文次郎の身体を見る。
もう忍者の仕事は辞めているのだろう、彼の身体は左足が膝から無くなっていた。
「そうか」
文次郎は何も聞きたくないという表情を隠しもしない。
もう帰ってくれと思ってるのだろう。
「今は副学園長という位置付けで仙ちゃんが全体を治めてる。最初は嫌々ながらやってたけど今は当たり前のように仕事をこなしてるよ」
「だからもんじも、一度で良いから学園に顔を見せてよ。それだけで良いから」と小平太が言うが文次郎は目を合わせようとせずに首を横に振る。
「今の俺じゃ学園を守ることなんて出来ねえ。こんな無様な姿、誰にも見せられねえ」
「ふざけんなっ!!足一本無くなった位でなんだよ!忍者は命があってナンボだろ!お前、なんでそんなに腰抜けになったんだよ!」
小平太のいきなりの暴言に腹が立って文次郎も怒鳴ろうとしたが、それよりも早く小平太は上の服を全部脱ぎさった。
そこにあるはずの右腕が肘上から無くなっていた。
咄嗟の事に怒りも忘れて文次郎が凝視する。
「私も忍びを辞めたんだ。城主に捨てられた…」
ある大きな戦に巻き込まれたらしい。
城主を庇って右腕を深く負傷した。
傷つきながらもなんとか敵忍と戦って応急処置もろくにしなかった。
その場ではなんとか助かったが、多量の出血と毒刃からの傷で何日も気を失い、目覚めた時には術後で既に右腕は無かったのだ。
その後、城主自らに呼び出され「腕のない忍びは役に立たない。今すぐ出て行け」と捨てられた。
小平太の話を聞いて、文次郎は血の気の引ける思いだった。
腕一本無くなった位で、存在まで否定されるなんて。その城主が心底許せない。
だが、そんな文次郎とは打って変わって小平太は笑顔で言う。
「今の私なら文次郎と対等だ。別に憐れむつもりも嘆くつもりもない。片腕でしかお前を抱きしめられないが、それ以外はなんにも変わっちゃいない。目があるからお前の笑顔を見れるし耳があるからお前の声を聞ける、口があるからお前に話しかけることが出来る。命があるから…」
全部言い終わるまでに小平太の身体を文次郎が強く抱きしめた。
小平太から表情は窺えないが、身体を小さく震わせながら抱きしめる癖に顔を見せようとしないのは文次郎が小平太の前でだけする泣く時の仕草だった。
「これからは私がもんじの左足になるから。だから、菖蒲の花言葉のようにはならないで」
「ああ。これからは俺がお前の右腕になる。だから、俺の傍から離れるな」
残りの人生は腕の中の命に捧げようと文次郎は誓った。
あの頃、学園の長の心理に賭けたのは…
菖蒲の花言葉は――
―――『信じる者の幸福』と『消息』そして『良い便り』
いつかは夢を諦めなければならないときがくる。⇒END
おっかしいなぁ…。
最初は学園長と文次郎だけの別に暗くない短文だったはずなのに、いつの間にか小平太が出て少し長文になってしまった。
書いてる内に設定が斜め上にずれるのはいつもの事ですが、ここまでくるともう困った的な。
さり気無く学園長、長生きも良い所ぢゃねえかwwと書いた後に気付きました。(←もっと早くに気付きなさい/苦笑)
菖蒲の花言葉は他にも『神秘的な人』とかあるそうです。
第16期の頃のOPの学園長の庵シーンが好きでした。
あれ見てから学園庵=菖蒲のイメージが強いです。
あと文次郎はたまに弱音を吐いても格好良いと思います。格好良いって罪だね!!
あと小平太は辛い時も笑って耐えてそうで健気なイメージです。小平太って罪だね!!