観察、する | ナノ
もうすぐ期末テストがある。
無事に健やかな冬休みを迎えるためにみんな必死に勉強をしているこの時期に、私の目の前には土下座しそうな勢いで頭を下げる男子が一人。
「委員長、頼む!」
「何でそんな必死なの?ちょっと笑える」
「そうゆうのは言わずに考えるだけにしろっつうの!」
「じゃあがんばれ」
「わああ!待った!」
放課後の教室で切原の声はやけに響いた。
いつもグランドを走っている野球部員の声はまったく聞こえない。それどころか役目は終わったと言わんばかりの速度で帰るものだから、終業十分程度しか経っていないのに教室はわりと閑散としていた。
「英語、英語だけでいいから!」
「なんでそんな必死なの?」
両手を拝むように合わせるあまりの必死さに素朴な疑問をぶつけてみる。
するとしゅん、というより今にも泣きそうな顔なった。
「それがさ、前の期末の点数を部長と副部長に見られたんだ」
「へえ」
「で副部長にたるんどる!って言われて…」
「ふーん」
「全教科平均点以下取ったら校庭百周に筋トレ五十セット一週間やらされんだ!」
自分で自分の汚点を暴露したよこの男。
「ほー…なるほど、で切原」
「何!?」
「私があんたに勉強を教えることによって得られるメリットは?」
表情をまったく変えずに聞いてみる。そもそも面白くもないのに笑顔を作るのは苦手だ。
対する切原はきょとんとしたあとヘラリと笑う。
何も考えてなかったな…。
「…苺ミルクで手を打とう」
「サンキュー!マジでありがとう!」
がっしりと手を掴まれて上下に振られる。
喜んでいただけるのはとても良いのだが、握られた手の骨が結構軋んで悲鳴をあげているので今すぐやめていただきたい。
そんなまったく勢いをつけずにとりあえず始めたプチ勉強会で音子は額をぴくつかせるハメになった。
「…まずは英単語から覚え直そうか…」
切原の解いた教科書の練習問題を見ながらしみじみと呟く。
「…馬鹿にすんなよ」
「あ、大丈夫。もうそういうレベルの話じゃないから」
「I、my、meからやり直そ」と言ってみると「そっからかよ!」と文句を垂れ始める始末。
あんたはあんたが思っているより馬鹿だ、と言いたいが堪える。ここで言ったらまた面倒な拗ね方をされるに決まっている。
「さあ切原、これから基礎を叩き込み直すよ」
「うへー」
「そのあと…」
ニヤリと笑うと切原が怖いものと遭遇したような青ざめ方をする。失礼な。
「何その顔」
「だって委員長が笑ったから…」
そんなに私が笑うのが珍しいか。否定はしないけど。しかしこいつはあたしの機嫌を損ねたことを後悔するだろう。
「やーめた、せっかく英語のテスト必勝方法教えたげようと思ったのに」
「な、何だよそれぇ!?」
「さあ切原まずは基礎単語の見直しからだ」
「ちょ、必勝法を…」
「基礎知らなけりゃ宝の持ち腐れ。だいじょーぶ、出そうな単語に印しつけたげるから」
さあ構えろ、と言うと切原は渋々とシャーペンを持つ。嫌だけどやらないと死ぬ、と表情が物語っている。
私は頼まれたら最後まで信条だから何とも思わないけど。
「…委員長…俺さぁ」
「んー」
「馬鹿だからさぁ、あんま理解できないこと多いっつーか」
突然しゅんとした表情を浮かべてボソボソと喋り出す。
その普段からは想像できない謙虚というか、殊勝な姿にサブイボが立つ。
と同時に一つの予感がした。
「根気よく教えるってば…必勝法は教えないけど」
「ちっ」
「舌打ちかい…」
やっぱり。カラーペンで文章に線を引いたあと、赤ペンで文法の説明を書き込む。
多分この行為は切原には理解できないだろう。
「切原、あんたに必勝法は教えないけどさ」
「あ?」
「三日で英語平均取れるまでのレベルに育てたげる」
だから安心しなさいって。
切原は「育成ゲームかよ」と言うので「ポケモンだったらまだたいあたりしか覚えてないレベルだろね」と答えとく。
ほのおタイプだとしてせめてひのこは覚えさせよう。
そう思い赤ペンを握り直した。
それから2週間。
「奇跡だ…」
「ああ、奇跡だ…」
私の目の前には呆然とした様子のスキンヘッドと赤髪の二人組、横には誇らしげなワカメ頭。
「全教科平均点以上で、しかも英語は70点…」
「ありえねぇ」
「俺だってやればできるんですよ」
言い切った後にふふんという感じに笑う。
残念ながら、普段よりさらに馬鹿みたいに見えるが言わないでおこう。
「…つーかお前、俺らじゃなくて真田に見せたほうがいいんじゃね?」
丸井先輩が言う。それを聞いて「あーっそうだった!」と切原があわてふためき始めた。
「部活前に見せれば大丈夫だろ。けど、これは真田達も度胆抜くかもな」
スキンヘッドの先輩、もとい桑原先輩が冷静に、ちょっと嬉しそうに言う。
多分お人よしなんだろう。
「へへへ」
「…ねぇ何であたしここにいるの?教室に帰っていい?」
嬉しそうに笑う切原には悪いが、授業が終わった途端首根っこ掴まれて強制連行された意味がわからない。
しかも二年生の階、すさまじく居づらい。
「何となく」
やっぱりへらりと笑って答える切原は全然居心地の悪さなど感じていないようだ。
「しっかしお前すげぇな、こいつに勉強教えんの大変だったろ?」
「はあ、まあ…でも範囲で出そうなとこしか教えてないですし」
三日教えてあとは放置したし、とは言わない。
「そうだ忘れてた…委員長!」
「んー」
「勉強教えてくれてサンキュ!」
にかりと笑ってお礼を言う。あの切原がまさかここまで素直に言ってくるとは思わなかったから、一瞬動きが止まってしまったのがわかった。
「…まあ、どう致しまして…」
たいしたことはしてないけど、切原にとってはたいしたことだったということなんだろう。
しかし今は少しばかりの恥ずかしさを無視して言いたいことがある。
「…教室、帰りたい」
やっぱり周りの視線が痛いんだよ、ほんと。
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