観察、する | ナノ
例えテニスラケットを持ってコートを駆け回る男子がいっぱいいたとしても、彼がどこにいるのかすぐにわかる。速度にして0.0001秒…は言い過ぎだけれど、すぐに見つけられる。ああ、あんな所で頑張ってるって。
そういう時に思う。私は切原が好きなんだって。
朝礼が始まる2分前に教室に入り、足早に自分の席に座る。朝礼が終わるとすぐにトイレに駆け込み、授業が始まる1分前に教室に戻る。以下それを繰り返し。お昼ご飯は屋上で食べ、放課後は終礼の終わりと同時に教室から出た。
何とわざとらしいことか、と自分で呆れるくらいの避け方にため息が零れる。14年のうち、ここまで露骨に男子を避けたのは初めてだった。そしてそこまで会うのが恥ずかしいのも初めてで、頭がとても痛くなる。
次は浅井の番だからな、聞かせろよ!
つまり今度は私が切原をどう思っているかを聞かせろと要求してきたのだ。
あんなことを言ってはいたが、片思いの可能性は考えないのだろうかあのワカメは。いや意外と勘が良いから気付いているのかもしれない。
「うあああああ…っ痛!!」
恥ずかしさのあまりに唸りベッドの上をゴロゴロと転がっていたら壁に頭を強打した。
「姉ちゃんうるさい!!」
バンッと壁の向こうを蹴る音がしたので蹴りかえすとガゴンッと何かが落ちる音がした。
「お前がうるさいわ!!」
しーんと部屋が静まり返る。
再びベッドに寝転がり、どうしようどうしようと呟く。
自分の気持ちを言うのか?要求されたからには何らかの答えを言うべきだろうが、何を言えばいい?どう言えばいい?それがわかれば苦労はしない。
そして一つの結論が出る。
「…寝よう」
脳は限界値のパラメータを完全に振り切って、すでに役割は果たしていないのだから。明日からのことは明日考えよう。
音子はもそもそと布団の中へ潜って、あっさりと意識を手放した。
次の日になって、同じように朝礼が始まる2分に教室に入って足早に自分の席に座り、朝礼が終わるとすぐにトイレに駆け込み、授業が始まる1分前に教室に戻る。そしてお昼ご飯は屋上で食べた。
この間切原の方を見るということはしない。視線は感じるが見ないようにする、まさか教室のど真ん中で返事を聞かれても困るからだ。
すでに終礼の最中で、今日も足腰をフルに稼動させ全力で教室を去るために鞄はすでに抱えてある。
「きりーっれー」
起立も礼もあやふやな言葉に従って立ち上がり礼をしてすぐに扉の前に向かおうとして、ぎょっとする。
切原がクラスメートを掻き分け、こちらに近付いて来たからだ。サアと血の気が引いて、気がついたら足が扉の敷居を越えていた。無意識とは恐ろしい。
「浅井待てよ!」
名前を呼ばれたことで、廊下にいる人達の視線が一斉に向けられたのがわかった。しかしそんなことは気にしていられない。階段に向かって全力疾走を開始する。
「このヤロ…っ」
すると後ろから同じように走る足音が聞こえた。
誰が野郎だ誰が。いつものような軽口が思い浮かぶも、言い返せる状況ではない。気を抜けば追い付かれてしまうからだ。
階段の段差をいくつかとばしながら駆け降りると黒い帽子が目に入る。
「何をしている貴様ら!!」
真田風紀委員長様である。ビリリとした低い声に心臓が悲鳴を上げるが脇をすり抜け逃走に成功する。少し振り返ると切原もすり抜けに成功したらしく「副部長すんません!」なんて謝っていた。
距離にして数メートル、下足場に行っていたら追い付かれる。ならばと方向転換をし女子トイレに駆け込むと「お前マジありえねー!」なんて言葉が聞こえた。
扉を閉めて窓から外に出ると左右を確認して下足場とは反対の方向へ逃げた。きっと下足場付近を張っているであろう切原も三年生が引退した今は部長として部員を引っ張っていかなければならないのだから、しばらくすれば部活に行くだろう。そう考えて屋上へと足を向けた。
階段を上がる時ですら周囲には細心の注意を払い、屋上へ続く階段を上がり扉を開けると、少し日の傾いた空が目に入る。その美しさに扉に手をかけたまま、ぼんやりと空を見つめた。
「鳥でも飛んでる?」
話し掛けられて前を向くと、少し離れた場所にある花壇に、先輩であろう一人の男子がいた。テニス部元部長の幸村精一だ。
「あ、いえ…べつに何もないです」
ほぼ初対面で間抜けな姿を見られたのかと思うと、恥ずかしくて俯いてしまう。幸村は柔らかい笑みを浮かべたまま鮮やかな花が咲く花壇へと目を向け、話を続ける。
「そう。いきなり来たと思ったら空を見上げたまま固まったからどうしたのかと思ったんだ。たしか、浅井さんだよね?俺はテニス部元部長の幸村、よろしくね」
「はい、あの…知ってます、全国大会見に行きましたから」
「俺も知ってる。さっき君と赤也が追いかけっこしてるの見たから」
嫌味だろうか、しかもよりにもよって何という場面をあえて上げるのか。恥ずかしさのあまりに頭を抱える。しかし幸村はそんな音子を見て綺麗な微笑をさらに深くした。
「何で逃げているの?何かされた?」
「いえ別に何も…ただちょっと私が逃げたくて逃げたというか、現実逃避気味というか…」
「ふうん」
わかっているのかいないのか、幸村は曖昧な返事をして立ち上がる。
「仁王やブン太は痴話喧嘩だって言ってたけど」
「ちわげ…っ!?違います、切原とはそんなんじゃないですっ。丸井先輩も仁王先輩も何考えて…っ」
あまりのことに頭で考えていることに口が追い付かない。パクパクと、魚が餌を求めるようにただ空回りする。
「はは、浅井さんって面白いね。…二人はね、赤也を気にしてるんだよ」
「は、はあ…」
「後輩がたまに気合いが入らないとつい勘繰るのが先輩なんだ。だから構うんだろうけど。とは言ってもしばらく部活に顔出せなかった俺でも気付いたのに、本人と相手が気付いてないのって面白いなあって、だから余計に気にするんだろうけどね」
「…そっすか」
とても饒舌に話す幸村に今すぐに頼むから黙ってくれと言いたい衝動に駆られる。それくらい恥ずかしい、叶うなら掘削機をどこからか取り出して穴を掘ってその中に隠れたい気分だ。
「まあ俺はあまり他人のそういうのに首を突っ込みたくないけど。一つだけ、言うなら」
そう言ってわざとらしく指を一本立てる。
「きっと赤也は待ってるよ」
じゃあ俺は行くね。そう言って幸村は屋上から降りていってしまう。
それからしばらく、屋上で庭園を眺めていた。紫色の花が多いのは季節だろうか、よく見れば支えの棒に夕顔が咲いている。紫は高貴な色らしい、けれど夕日の射す今はあまり高貴な感じには見えない。
コンクリートの地面は淡い橙に染まって、今日の終わりを告げる。
音子は駆け出した。一日が終わってまた一日がやってくる前に、また一日切原が待たないように。
その前に伝えたい、言葉がある。
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