観察、する | ナノ
「浅井さんって切原君と付き合ってるの?」
言われたことに心がフリーズを起こした。
「全然」
けれどそれとは裏腹に声帯は無愛想な声で的確に否定する。あまのじゃくでよかったと心底思った。
新学期に入ったばかりの九月はまだまだ夏休みムードが漂いどこか自堕落な空気がある、と音子は考えながら己もそのうちの一つだと自覚していた。
あれから度々切原と遊びに行き、かなり充実した夏休みを送った。しかし学校が始まったとたんクラスメートや他クラスの女子に「切原と付き合ってるの?」という質問が急増した。何でも一緒にいたのを見たから、らしい。たかだかクラスの男子と一緒に遊んだだけで付き合っているだのなんだのと言うかが理解できない。自身は女子だが、女子のそれらの発言はさっぱり脳内の理解の範疇を越えている。ようは飛躍しすぎなのだ。
切原の方に目を向けると友達に何か言われ必死に否定しているように見えた。同じように聞かれたか、からかわれているのかもしれない。
自分だけならいいけれど、切原にまで迷惑を被るというのは嫌だ、と思った。だいたい噂も七十五日とは言うものの、毎日同じ質問ばかりされたら気が狂いそうである。これは何か策を講じるべきかもしれない。そして授業一時間分じっくりと考えた結果、見るという癖と切原と一緒にいるという状況を意識的に控えるようにするということを閃いた。これならば噂に尾ひれがつくことも、広まるのも抑えられるだろう。
うん、と考えに一人で納得すると机から国語の教科書を取り出した。
それからは意識して切原を避けるようにした。すぐに理由をこじつけて去る音子に疑問を持っているだろう彼には悪いが、互いのためなのである。
かばんから弁当箱を出して音子はふう、とため息をついた。実行し始めてから五日、度々聞かれる質問にも、切原の物言いたげな視線にも慣れてしまった。しかし切原の視線はとても非難するような意味を持っているようにしか見えなくて、とても気分が沈んでしまう。
「偏ってるし」
おにぎりの方へ寄ってしまってへちゃりとしている弁当の中身を見て、さらに心が凹む。食べると卵焼きに肉の味が移っていた、それだけで悲しくてたまらなくて机に突っ伏してしまう。
何より気分を沈ませるのは、話したい人と話せないことだ。噂が消えるまで、仮に七十五日、我慢したとしてはたして意味があるのかどうか。考えてみれば七十五日我慢して、そこからまた同じように接することができるのかわからない。
不安なのだ。
顔を窓の外へ向ける。雲ひとつない空を見ながら、ぼんやりと、この不安を切原も感じてくれていないだろうか、と独りよがりなこと思った。
けれどそんなことはすべて勘違いだった。帰り道の真ん中でテニスラケットを持った切原が鋭い目で睨んでくるのを見て、ああ彼は私と同じ不安ではないものを感じているんだと悟る。
「あのさ、聞きたいことがあんだけど」
「うん」
「何なの、最近」
理由を聞かれて、言葉に詰まる。噂を気にして、と言うのは何となく恥ずかしい上にあまりにも情けないからだ。
「いや、ちょっと…年頃なので」
「はあ?意味わかんねーんだけど」
「私はだね、人の言うことを気にする性だから…」
「だから意味わかんねー、はっきり言えよ」
「…噂のせいで私も切原も周りに誤解を与えるのはいかがかと思っただけ」
追求されてしまえば本音はぽろりと漏れてしまった。切原を見れば口が「はあ?」という形になっている、口だけならまだしも表情と雰囲気で不愉快だと語られると心臓がギュッと縮まる。嫌われたくないと、思った。
「キモッ」
しかしこちらの意図がわかっているのかわかっていないのか、一言吐き出すように言い捨てる。しかも言うに事欠いて「キモい」ときた。
「誰がキモいだ」
「浅井っぽくねーんだからしかたない。だからキモい」
「はあ?私っぽくないって何が?」
「気ィ使いすぎ、俺にもクラスの奴らとかにも。いつもは我関せず…だっけ?まあいいや、まったく気にしないくせに」
自信を持ってなんと失礼な発言をする男だろうか。あまりの言われように絶句する音子を見て切原はため息をつく。
「周りなんて気にすんな、ついでに俺のことも。べつに俺、気にしてねーし」
「…ほんとに?」
「ほんとだっつの。だからわかりやすく避けたりすんな!それが一番ムカつくんだよ!」
「いきなりキレんな!ビビる!」
「うっせ!」
そう言うと、前に彼にしたように、髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜられ視界が毛だらけになる。
「何すんの!?やめろ!」
「もう避けるたりしねーって約束したらな!」
「わかった!約束するからやめろって!」
「よっしゃわかった」
何がだ、と言う前に視界が少し明るくなった。顔を上げて切原を見るとまだ少しむっすりとしているが、だいぶ柔らかい表情をしていて、ほっとした。
「俺結構傷ついたんだからな、約束しろよ」
「わかったってば…もう考えない。切原がそんなに傷ついたんならね」
「当然だろーが」
言いづらそうにもごもごした後、意を決したように目を合わせてくる。
「浅井と一緒にいたいのに、避けられると困る」
何も言えなかった。ただ恥ずかしかった。何も言わない音子を見て、切原は「俺行くわ」とラケットを振るう。部活に戻るつもりらしい。
「ああ、うん。がんばれ」
「がんばる」
ランニング並の速度で去っていく切原の後ろ姿に、さっきの言葉が蘇る。
一緒にいたい、それは話したいという欲求と同義なのだろうか。言葉だけ取れば「いたい」というほうがランクは高いのではなかろうか。
「…恥ずかしい奴」
でも嬉しいと感じてしまう。夏休み中、身体の中でくすぶっていた色がどんどん濃くなって、熱くなっていく。
私は、切原が好きだ。
認めてしまえばなんと簡単なことだろうか、トクトクトクと鳴る心臓が不思議と安心を与えてくれる。
好きなんだ。
夏が終わる前の夕空からの日光と高くなる体温が全身を満たした。
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