彼女の瞼に口付けた 黒尾


知らず知らず口が紡いでいたこの曲は、確か私が小さい頃流行っていた歌謡曲か何かで、何故こんな曲を歌っているのだろうと疑問を感じたが、それは、CMで流れていたからだとはっとした。
部屋の、窓の向こう側を見ても、私の存在を示すようなものは無い。街、人、ゴミだらけ。喧騒、汚臭、雑踏たち。私はどこにもない。


「なまえ?」
「クロ、どうしたの?」
「いや。お土産」

私の部屋にノックもせずに入ってきたクロ。
そういえば今日はどこかへ出張だとか言っていたか。彼は私に袋を渡した。

「ネックレス?」
「そ。綺麗だなーって思って」
「ありがとう」

心にも無いことを言いながらその袋をクローゼットの中に仕舞う。
それを見ていた彼はやや不満そうに私の背中へ声をかけた。

「着けてくんねーの?」
「高そうだから、大事な時にとっておきたいの」
「俺にとっては今が大事なんだけど?」
「私にとっての大事とは違うのね」

仕舞い終えてベットへ座る。クロはネクタイを緩めながら丁度私の正面にあるソファーへ座った。

「何か他に欲しいもんとかある?」
「なに、急に。珍しいこともあるのね」
「うるせぇな。たまにはいいだろ」
「……別に。何もいらないわ」

あなたは本当に私が欲しいものを知っている。
しかしそれを与えようとはしない。
それはあなたにとって恐怖でしかないから?

「……そうか」
「そう。疲れているでしょ?はやく寝たら」
「ああ、そうする。おやすみ、なまえ」
「おやすみなさい」

部屋から出ていくクロの姿を見届けて、私はベッドに横たわる。
嗚呼、無情。
虚空を見つめて呟く。きっとこの思いをあなたは受け入れてくれないのでしょう。



その日、彼を見つけた。彼は私に気付いていない。だから話しかけなかった。話しかけられなかった。隣に女の人がいた。

ああ、この人か。

彼が寝言で呟く名前は。
悲しくて辛くて、なにより悔しかった。勝てないと思ったから。どんなに頑張ってもあの人には勝てない。決定的に、私に欠けているものがあの人にはあった。それに気づいてしまって、悔しかった。
踵を返して家路を急いだ。
涙が流れている。彼が来る前に止めばいいけれど。



窓を閉めて、カーテンも閉めて、電気も消してベットに沈んだ。暗闇の中時計の秒針の音だけが響く。
今日彼は来ない。その事実がどうしようもなく私のプライドを砕いていった。

完全に閉まりきっていなかったカーテンの隙間から、時折車のライトが差し込む。
その光を見てふと思った。







あなたをわたしのものにしてしまえばいいんだわ。




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