対話

とんと日が暮れると、主人も女中もすっかり寝入ったこの城は本当に海の音だけしか聞こえない。
今日は最初に約束してくれた通り、時雨がここにお世話になって2カ月ほど経ち、昼間に橘が様子を見に来てくれていた。
相変わらず上品な笑みを浮かべたその紳士は流暢にイタリア語で執事頭に二三何かを頼むと、精進されているようですね、と日本語で話しかけてきてくれた。
久しぶりに聞く日本語にすっかりなつかしくなってしまって、お久しぶりですと挨拶をすると、橘はいっそう笑みを深くして話を続けた。


「リサリサ様が言っていました。自分の口利きなしで良くメイド達と仲良くやっていると、言葉もようやく喋り出して親しい友人も何人かできたそうではないですか」
「ありがとうございます……まだまだ難しいことばかりです。頑張って聞き取れて口には出してみても上手く喋れずにもどかしくて」


どうすれば橘様の様に上手く喋れるようになるのでしょうか。と問いかけると、意外なことに帰ってきた返事はとてもシンプルなものだった。


「簡単ですよ。そのご友人達としゃべるんです」
「………はぁ」
「気負いしてはいけませんよ、どんな些細な話題でもいいから喋るんです。そうして相手の顔を見ていれば、きっと色んな事を学べますよ。逆を行ってしまえば、必要無いんです。訂正してくれる友人さえいれば教本なんてね」


流石は外交官をしていらっしゃる殿方はとても頭がいいのだな、とひとりごちて、自分と橘の前に置かれたコーヒーのカップに口をつける。この真っ黒でやたらと苦い飲み物もようやく舌が慣れてきた。良く喋って慣れ無いものを味わって、この舌もここ最近は随分苦労している。
そうしてコーヒーを味わっていると「そういえば男の友人もいらっしゃるそうで」と橘の声が聞こえて思わず噎せてしまう。


「それは……!執事頭さんの事ではなく…?」
「金髪の……イタリア人の大学生なんだそうですね。お嬢さんをまっている間私に挨拶してくれましたよ。大柄な美丈夫でしたね、とても丁寧な挨拶で感心しました。彼は貴方ととても仲の良い友人だと言っていましたよ」
「……それは何かの間違いです。その人はおかしな人で、仲良くしているわけではありません」
「お嬢さん」


真っ黒な中を白いミルクが煙の様にくゆって薄く溶けてい様を眺めて真っ向から否定していた時雨に、穏やかな声音で呼びかけられて顔を上げる。
橘は鞄から新しい教本を取り出して時雨に手渡した。


「もっとお話してみなさいな。何か誤解されているんじゃないですか?あなたも彼も」
「誤解するほど話したでしょうか」
「だから話をするんですよ。なんでも利用なさい。お嬢さん、ここでは日本人らしく慎ましやかにしていても誰も褒めてはくれませんよ。興味を持たれている間に良く話学ぶ事です」
「彼と話を………ですか」
「ええ……すみません、もっと色々お話をしていたいのですが、なにぶんこのご時勢です。すみません、失礼します」


そうして橘を見送ってからなんとなく色々考え込んでしまって、夜になってもそれは変わらずすっかり目が冴えてしまっている。
真夜中にベットを擦り抜けると、薄い寝巻きの上から一枚だけの華やかな柄の椿の着物の羽織を着て、簡単に裾を上げて薄い帯を締める。
母親が見れば卒倒してしまうほど簡単な、というか女郎の様な格好だが誰に見つかったところで気にもされないだろう。
着物の正しい着方なんてこの国じゃほとんど分からないのだから。
修行の塔の入り口の前にある広間で空に広がる星を眺めた。風は思ったより強くて、髪をまとめておけばよかったな、と考えながら持ってきた小さな椅子に腰掛ける。
不意に視線を感じて顔を上げると、離れたところで少しだけ汚れた格好のあの金髪の青年が立っているのが見えた。彼がこの城にしにきているという修行は今終わったのだろうか。
此方に気付いたらしい青年が、何やら焦った様に汗を拭くと走ってくる。
自分のすぐそばまで来ると、彼がそっと開いた掌の中には、どこかで落としたと思っていた髪留めがちょこんと載っていた


「あ……これ、私の」


手にとってみると、落とした時に割れたのだろうか。少しだけ入ってしまっているヒビに誰かが補強した跡がある。


「あの、これ貴方が?」
「あぁ……折角綺麗な髪留めなのに、落とした時に割れちゃったみたいだから……ごめん」


殆ど分からないように上手く隠してあるそれに、もしかしてこれを返すためにずっとつき纏っていたんだろうか。という考えが頭に浮かぶ。ずっと不機嫌そうに仕事をしていた自分にはきっと切り出しにくかっただろう。どこかホッとした顔をしている彼を見て、途端に恥ずかしくなる。メイド仲間の揶揄いにまんまと乗せられて、彼と良く話もしないで、自分の事を邪な気持ちで誘おうとしていると思っていた。
固まってしまった自分に、おやすみ。とだけ言って踵を返した彼の背中に、気付けば声をかけていた。


「まって………あの、私眠れなくてここにいて……その、つまり……お礼をさせて下さい」


今度は振り返った彼が固まっていた。



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