恋よりもっと不誠実



息を吸えば、冷めた空気にとんと遠くに行ってしまったような高い雲が冬の青空に浮かんでいる。
武家屋敷でもある煉獄家の周囲はしんと静まり返っていて
時折通りを歩く女性の小さな話し声が、鳥の囀りのようにひっそりと
静謐に並ぶ屋敷に間を通り抜けた。

ここはこんなにも静かだったのか。
あのころは多かった門下生が今は一人もいないことに胸を痛める。
踏まれて痛むこともない庭の地面には、千寿郎の足跡だけがところどころ残っていた。

寒風に巻き上げられる前に集めた落ち葉に火をつけると、ついでとばかりに新聞紙に包んだ芋を二つ埋める。
ちりちりとあがる煙を見上げると、昔よく瑠火さんがこうしてたくさん作っていたのを思い出す。焚火が始まると集まってくるたくさんの門下生、少年達と同じように刈り上げた、土埃だらけの15の、わたし。
長い黒髪を一つに纏めて薄く汗をかきながら白い細腕で落ち葉を混ぜる彼女の横顔をおもいだす。

屈んで濡らした木の枝で時折葉の間に空気を送りながら、名前はチラチラとあがる小さな火の粉をぼんやりとみつめた。
ここには本当に思い出が多すぎる。

(一緒になって何になる。か……)

久しぶりに横っ面を叩かれたような気分だった。
杏寿郎といることで生まれる義務なんて冷静に考えれば分かり切っていた筈だ。
昨夜の薄い月夜に照らされる、横になった杏寿郎の優しい微笑みを思い出すと胸が痛い。
このまま近くで見ていたいと思うのに、隠を止めることなど思いつきもしなかった。

隠ではない自分など想像もつかない。
この世界に来てから中学生なりの必死さで歳上に混じって生きてきた。
この時代で、鬼に関わらずに生きていく
普通の人生の送り方なんてそれこそわからない。

頃合いかと水を取りに炊事場へ行く。
鎹烏は少しも名前に知らせを持ってこない。怪我自体はただの刺し傷だが、医務から連絡がないということは名前の現状もすっかりあちらに伝わっているに違いない。
モヤモヤと考えながら歩く廊下の角で、不意にとびたしてきた影に
身構えるまもなくゴツリと強い衝撃が脳天に響いた。
ぐわんと揺れる視界にたまらず蹲ると、上擦った声が廊下中に響く。

「うわっ……!?名前さん!?ごっごめんなさい!」

結構な衝撃だったはずなのに、全くダメージが通っていないのか、声の主…千寿郎はしゃがんで咄嗟に名前の両頬を持って上をむかせる。
開いた視界に、下がり眉の良く似た双眸が不安げに自分を見下ろしていた。
きらりと揺れる柑子色の瞳が額の辺りを彷徨うと少しホッとしたように緩められる。

「良かった…!怪我でもさせたかと」
「そんな、私の不注意です……」

手の離された頬に自分の冷えた手を当てる。

「それにしても千寿郎さん。石頭ですね……」
「すいません!怪我がなかったとはいえ、痛かったですよね…」
「心配しないでください、ちょっと感心してただけですから」
「そういえば」

休むよう、よくよく言われていたと思うのに、こんなところで何を。
と千寿郎の疑問に芋のことを思い出し慌てて立ち上がる。
しまった。忘れかけていた。

「焼き芋!!」
「やっ……焼き芋!?どうして?」

水桶お願いします。私芋を助けに行かないといけないので!
と走り出した名前の背中を、千寿郎はポカンと口を開けて見ていた。










自分の手元で甘い匂いをさせながらもくもくあがる湯気と、熱さをものともせずにもりもりと食べ進んでいく隣の女性を見比べながら、千寿郎はどうしたものかと自分の手元をじっと見つめた。
兄の不在に、数年に一度父に会いに来る女性は、いつもきっちりとした仕立ての良い着物を着て紅を引いた唇で薄ら微笑んでいた。
槇寿郎様はいらっしゃいますか。と細い声で尋ねる彼女が帰ったあとはスミレの香水の残り香がした。
上品な化粧に穏やかな声音で小学の教師をしている。と言っていたあの頃。
彼女が来る時は、父もお酒をやめていた。
手土産とともにやってきて、手入れされた爪で口元を隠して笑う彼女を見ると、少しだけ父は笑っていた。

時折父がいない時は少しだけ話をした。自分のことを話さないけれど、緊張している自分を見下ろすとふっと笑う、切れ長の目が優しそうに弧を描くと酷く気恥ずかしくて逃げ出したかった。

俺に嘘をついていたな。
といつも通り現れた彼女を、父が物凄い剣幕で責め立てていたのは数年前。
子供心に何か二人の間に自分の介入し得ないやり取りがあったことはわかったが、久しぶりに、変わらず趣味の良い華やかな着物で彼女が現れたのはついこの間の事だった。

槇寿郎様は御在宅でしょうか。

と。ふわりと香ったスミレの香りと、変わらない薄い赤を落とした涼やかな目元にどきりとして、またバタバタと彼女が帰る頃に彼女の名前を呼ぶ父の声を聞いて初めて彼女の名前を知った。

(名前、さん)

彼女の名前を何度か反復して心の中で読んでみた。
自分を呼び止める彼女は、千寿郎の中では正体こそわからないものの確実に大きさを増してきていた……………のだ。

「千寿郎さん全然進んでないじゃないですか、あんまり好きじゃなかったですか?」
「あっ……!いえそんな!」
「そういえば今更ですけど、勝手に焚火して良かったですか?」
「はい……おそらく…」

熱いと言いながら薄皮を剥く彼女の手はまだ病人然として白い。

「あっ…だめですよ名前さん、甘いものじゃなくて昼に出した鳥肝を全部食べてください、せっかく鉄鍋で火を通したのに」
「………ありがたいけど、そんなに血合いばかり食べられないよ…体が欲しがってるものを食べるのが1番」
「そんな……兄に全て食べさせるように言われてます…!」

そう言って自分でひとり息を飲んだ。
そうだ、兄。
この人はきっと兄の

「千寿郎さん」
「あ………」

こちらを覗き込む名前さんの瞳が思いの外強くて、思わず下を向いてしまう。

「年々大きくなってますよね……当然ですが」

そう言って芋を置いて自分の両手を握って立たせる。
とんと近くなった彼女のおでこが視界に広がって、握った手はそのまま一歩下がる彼女は上から下までまじまじと自分を見つめた。

「ほら、もう私より大きい、背を曲げるから私とおでこがぶつかるんですよ!」

少しだけ赤いままの青白いおでこに見惚れていると、その指先が千寿郎の指や掌を労るようになぞった。
くすぐったさに視線を下ろす

「すごいね、誰かを守る人の手だよ」
「名前さん……誰かを守るだなんて、僕は弱くて、兄のように立派な男には…」
「立派な男の人だよ、もう」

冷たい手がたこをなぞって離れる。
頑張ろうね。と小さな声でこぼして離れた彼女の手
割って入った父親の苦情の文言さえなければ、思わずもう一度握るところだった。

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