春はまだ海の上




静寂から音を拾って、衣擦れに瞼を揺らす

他に音を立てるものののいなかった空間で家主が目を覚ませば、慌てたように差し込む朝日は古い床板に格子の陽光を差し込んでそっと朝を伝える。

のそりと布団から身体を起こし今ではすっかり慣れた重たく固い布団を畳んで、天井近くにある小さな格子窓をうらめしそうに見上げた。

土葺きの土間に出ると洗い釜で顔を濡らして竈門に火を入れる。
懐から小さな丸い漆塗りの手鏡を出せば、昨夜ひとり手酒で傾けた安酒のせいでうんと腫れぼったい瞼の自分と目があった。

名前は己の恐ろしく凡庸な作りの顔に残る寝跡に恨み言を言いながら、昨夜の残りを温める。
人よりも白い肌に付く枕のあとは、すっきりとした浮腫んだ一重と、小さい作りの鼻のせいで余計に目立って見える。
適当に髪を纏めながら鍋を掻き混ぜ、今日の仕事を頭の中で反芻した。

今日も忙しい、きっと昼を食べる時間はないだろう。
それであれば少しはこの憎たらしい浮腫も夜にはスッキリとしてくれなければ甲斐がないというものだ。

適当な薄い汁物をすすって、黒一色の仕事着を引っ張り出すと慣れた手つきで口布を結ぶと仕事に向かうため家を出る。

名前の仕事は隠である。
それも世間から隠れるように生きている江戸の隠密よりも複雑な生業をしている。
人を鬼から守るための機関、鬼殺隊の隠である。

人よりも秀でている体力を買われ何年も前に入隊し、なかなか入れ替わりの多い役職の中まだしぶとく今の仕事にしがみついて生きている。
先輩と呼べる人は順々にいなくなっていくことは仕方のない世の中ではあるが、可愛い後輩も増えたが故に職場での軽口も慣れたものだ。


「うわっ……まさかあれから飲んだんですか…?一人で」

今の職場である産屋敷に着くと三白眼の後輩、後藤は露骨に嫌な顔をして見せる。
つ。と自分の瞼を引っ張れば「そんなことをしても変わらないですよ」と可愛くない声。

いつ来てもまるで人がいないように静かで、まるで果てがないように感じる広く静かな座敷が連なるこの産屋敷の一室で、大きなぼろ布の上に繕われるために広げられた裾に赤の染めがある独特の白地の羽織に視線を落とした。

そのひどく傷んだ隊服を各々で繕っている同じ衣装の者たちは後藤と違ってただ黙々と手を動かしている。

「ここは人が足りてるね、繕いは良し…日輪刀は?」
「すべて里に送り出してます。夕刻には修理にかかれると思います」
「ダメになった物もあるだろう、細かいリストは…」
「今意識が戻った隊士達から直接確認に向かってます。衣服についてはまだ交換かはわからないのでもう少し作業が進んで再度帳簿に」
「現場の事後処理中の隠はもう戻ってるかな…」
「そろそろでしょう、気になるなら戻り次第お呼びしますか?」
「ううん…大丈夫、疲れてるだろうし…」

よく仕事のできる後輩は自分がぐうぐうと寝ている間に粗方の仕事の目処を立てていてくれたらしく、余計に浮腫んだ目元が情けなくなる。
じとっとした後藤の三白眼はまだもの言いたげだった。

「……今から、今から働くから…」
「そんなことは言ってません。
むしろあんなことをした後に酒を飲んで寝た事に呆れてます………酩酊は休息じゃないですよ」

耳の痛い話に再度、酒臭い…
という悪態が心に刺さる。
なんだか居た堪れなくなって曖昧な笑みを目元に浮かべて退散すると、台所でガブガブと水を飲んだ。

(あんなこと、では)

大したことをしていないつもりだったが昨夜の仕事はそうではなかったらしい。
昨夜はいつも通り傷ついた隊士を背負って普通ならあるき通しで3日かかる道を休み休み走って1日で帰った。

いつもの隊士と比べると体が大きく骨が折れた。
ただこの産屋敷の静けさを思えば、おそらく自分が受け渡した彼もまだ存命であるということは確かだろう。

指を押し付けるとそのまま腐る前の桃のようにくっきりと指跡のついた脹脛は許容範囲を超えた酷使を訴えている。

昨夜名前は煉獄杏寿郎を背負って帰った。
そのおかげで今も屋敷は静かだ。


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