魚人のお医者さん



「花京院先生、メメちゃん意識戻りました。バイタル安定してます」
「そうですか……じゃあ今日はもう上がってください。僕は念のためカメラだけ置いて帰ります」
「わかりました……お疲れさまです!」


看護婦さんに先に帰るように伝え、花京院はカルテにオペで使った薬物とガーゼ、その他機材の記入を続けた。
院長が週末に学会で不在だと、緊急のオペはどうしたって一番ベテランの自分がすることになる。休日の大型犬の胃捻転はこれで3回目だ。やはり大きな動物病院なだけあって、見れる症例も珍しい物から様々だ。
人のいなくなった動物病院でカルテを書き続ける。カツカツと自分がペンを走らせる音に混ざって、誰かの足音が近づいてくるような気がした。
思わずペンを止めて顔を上げる。さっきの看護婦さんが何か忘れ物でもしたのか。と思った花京院は、目の前にいる人物に驚き思わず目を見開いた。


「人子……ちゃん」


ポタポタと髪から雫を滴らせる彼女を見て、間抜けにも最初に思ったのは、今日はそういえば夜雨がふるんだっけ。なんていう下らない納得だった。
彼女は白い顔をしたまま立っている。
どうしてここに……。と漏らすと、携帯の画面に『鍵が開いていたから』と打ち込んで見せる人子ちゃんは、どう考えても様子がおかしい。
ビショビショのまま、彼女がこんなところまでやってくる理由が、花京院にてんでわからなかった。


「大丈夫かい……?とにかく、温かいところに行こう流石にもう秋も終わりにこんな格好じゃ……」


慌てて彼女を少しで温かいところに連れていかなければと肩に触れ、その冷たさに鳥肌がたった。まるで、そう。およそ陸上にいる生き物の体温とは思えない程に冷たいその肌は、いよいよ彼女に起こっている異変の深刻さを花京院に知らしめた。
人子の顔がゆっくりとこちらを見上げる。携帯の画面には、無機質な文字で簡潔に。その内容にそぐわない文章が写っていた。











オペ後の入院患畜用の犬舎が並ぶその部屋で、花京院はタオルや毛布を羽織らせた人子をパイプ椅子に座らせ、向き合って彼女の様子を観察していた。
体温は、この部屋の高い温度と毛布のおかげで戻りつつある。
その事にホッとする反面、もう一つの異変の正体が全く掴めずにいる。
なるたけ、動揺させてはいけない。
そう気をつけながら花京院は慎重に言葉を選んで口を開いた。


「……人子ちゃん。君の体温の事だけど、これは心配しなくて大丈夫だよ。ちょっとづつだけど元に戻ってる……明日には元通りになるよ」


こくり。と静かに頷く彼女に感情の動きは見られない。やはり、肝心のあの話をするしかない。


「それで……喉の事だけどね。内視鏡で見せてもらった感じでは、どこかが傷ついてる。とか麻痺してる。とかではなかったよ。人の言葉をしゃべる時には動かないけれど、君がイルカの友人と話す時のように声を出してもらった時にはしっかり動いていたから、脳で、何か起きて末梢の神経が麻痺してる。とかそういう心配はしなくてもいい」


そう言うと、ほんのすこしだけ和らいだ緊張の表情にこちらも思わずホッとする。
いつも賑やかな子が痛々しい程に大人しい姿は、見ていてとても辛い。
携帯の画面を触ってお礼の言葉を伝えてくる彼女は本当に弱々しくて、花京院にはどうにも彼女をそのままにする。という事は出来なかった。


「ねぇ、人子ちゃん」


そっと声をかけると、戸惑ったように視線をあげた彼女と目があう。
人子ちゃんの白眼がやっぱり、少しだけ充血しているのに気づいてこの自分の提案は間違いではないはずだ。と確信を持つ。


「僕とリハビリしないか?そりゃ……僕は言語聴覚士とかではないけれど、君にこれ以上何か起きないか見守ることはできるよ……それに君に関しては半分は専門家だしね」


困ったようにしか笑えない自分が情けない。彼女は暫く僕の目を見つめると、意を決したように頷いた。
その瞳の中に少しだけ、以前の彼女の前向きな光が見えたような気がして一人勝手に胸を撫で下ろす。
しかし、こうなってきては、当然彼の話題に触れないわけにはいかない。
物凄く。物凄く嫌な予感がするから本当は僕だって避けていたいけれど、本当に彼女のことを思うならそうはいかないだろう。


「それで……だ。承太郎はこのことを知ってるのかい?彼がいた方が、早く解決できると思うんだけど」
『ーーーーーッ…!』


途端に赤かった白眼をもっと真っ赤にし、ぐっと眉間に力を入れて涙をこらえようとする彼女の表情に、やっぱり嫌な予想程に良く当たるものだ。と後悔しながらも、花京院は人子の肩に手を添えて何も言わずにティッシュを手渡す。
俯いたまま画面をゆっくり触って、『大丈夫。先生は関係ないから、迷惑かけちゃうから何も教えないで下さい。』
と打ち込んだそのネイルのなくなった爪先を見ながら、花京院はそっか。とだけ言って患畜の様子を見る振りをしながらそっと彼女から離れ、犬舎の中で眠る動物達をぼぅっと見つめた。
もうこうなってしまっては、嫌、彼女が初めて長い間ずっと海にいたという話を聞いた時からずっと花京院は承太郎と彼女の間に決定的な何かが起こったのだと確信していた。
自分だってわざわざ痛がる傷口を開いて中身を見ようとなんてしたくない。けれど本当に彼女を元に戻そうと思うのなら痛みを伴う治療だっていつかは必要なのだ。


(………今は、まだまだ人子ちゃんの気持ちを想えば会わせられないけれど……)


二人の間が修復不可能になる前には絶対に話をさせなければ。

なんて静かな泣き声だろう。と花京院は犬舎のガラス越しに映る人子を見ながら思うけ。
何匹かの動物がうざったそうに薄目を開けて彼女を見つめている。
きっと多分、自分には聞こえないだけで彼女は随分と喧しく泣いているのだろう。


(けどもし……本当に修復できないほど決定的な別れが二人にあったのなら、僕は何をしてやれるかな……)


承太郎と人子ちゃんが縁を断つ。
もしそうなったら、そうなることしかない結末だったのなら。
そこまで考えて、花京院は小さく頭を振った。
暫く様子を見て、人子ちゃんが落ち着いたら、僕が承太郎に会いに行こう。
いくら獣医だなんだと言っても、所詮自分は二人の為にそれしかできないのだから。

[ 19/25 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -