うつくしいひと


承太郎をようやく奪還して、病院とは打って変わって暗い雰囲気の学内の廊下を歩く。
時々すれ違う学生が珍しそうにこちらを見つめる。ずっと奥に進んでようやく辿り着いた古い扉を開ける。
古い紙と、ほんのすこしの薬品の匂いが立ち込めるその部屋には、たくさんの水槽が大きな棚にいくつも置かれている。
承太郎が軽く手のひらで濁って向こう側の見えない水槽を拭くと、薄っすらと魚影が見え隠れしている。
すみません。と声をかけると、大きな鹿の骨格標本の裏にいた人間がこちらに気づいて顔を上げる。
いかにも好々爺といったこの老人は、本日時雨が承太郎に合わせたかったその人だ。

「先生、個人的に高校生を連れてきちゃいました。彼魚に興味があるし、研究職にも向いてるみたいなので、以前講義でしてくださった古代魚と現在の哺乳類までの発達進化の話を彼にしてあげてもらえませんか?」

時雨が話すと、うんうんと頷いていた老人は大きな承太郎を見上げるようにして話しかける。

「あぁ、君、研究職に興味があるの?」
「正直そこまで考えた事はねぇな」
「まぁ大学に来るっていうのは本来そのくらいの気軽さでいいんだよ。まずは君の好きなものの話をしよう。この中で気になる魚はいるかい?」

老人。細川教授はそういうと承太郎の前を雑巾で濁った水槽を拭きながら歩く。

二人の話し声を聴きながら、適当な椅子に座り、うつ伏せになりながらアレコレと話している姿を見ていた。
年なのか、それとも疲れからなのか、この絶妙に静かな空間にいると気分が緩んでくる。
眠いな。少し体をほぐそう。
特に気だるさの感じる足に久しぶりに意識を集中させると、体の奥から電気のような物が走る錯覚。それからじわじわ足が暖かく感じる。やっぱりこの自己暗示はすごく効くなぁと思いながら目を閉じていると、やっぱりどうして意識は泥の中に沈んでいくようだった。












子供が泣いている。
細やかな背景のない、淡い空間の中で女の子が泣いている。
地面に突っ伏した女の子は、泥だらけの服で、片足を地面に投げ出している。
直感で判る。これは私だ。
小さな子供である私の足はどこかあらぬ方向に曲がっていて、素人目にも折れているのだとわかった。私は怖くて痛くて泣き叫んでいる。じわじわと記憶が蘇る。
あの日私は友達と空き家でイタズラして遊んでいて天井の梁から落ちたのだ。
慌てた友達が走ってどこかに行ってしまって、痛みと恐怖で時雨はすぐに気絶してしまった。そうして気づいたら病院で、両親に怒られ目玉が取れるまで泣かされた。
はず。だった。

私はまだ泣いている。気絶する気配はない。
なんだか空き家にいるのも怖くなって無理矢理でも立ち上がって逃げようと腕に力を入れた

「痛いね。大変だ時雨、でも落ち着いてそのまま動かないで」

知らない男の人。
金髪で、鮮やかなバンダナをつけた、長身で立派な体躯の男の人がいつの間にか時雨のそばにしゃがみこんでいる。

「おっ……おにいさんだれっ!」
「お、おにいさん…!
……そうだね、おにいさんは時雨の困った時に助けるお仕事のおにいさんだよ。君のお父さんもお母さんもおばあちゃんだって知ってる。だから怖がらないで、ほら、落ち着いて」

男の人は大きい手で時雨の頭を撫でる。僕の言う通りに息をするんだよ。そう言ったおにいさんは時雨が落ち着くまで不思議な呼吸法を教えてくれた。
おにいさんは時雨が怖くないように色んな話をしてくれた。
いたりあ、という遠い国のこと、おにいさんにはたくさんの兄妹がいること。
お兄さんの言う通りにしていれば不思議と足はポカポカあったかくなって、泣くのをやめると、お兄さんは嬉しそうに笑った。
友達が誰かを呼んで走ってくる音がする
お兄さんは時雨を見ると少し寂しそうに笑った。

「ほら、時雨。お友達が誰か連れてきてくれたみたいだよ。あとは病院に行かなくちゃ。すごく痛いこともあると思うけど、我慢できなかったらまたこうやって息をすればいい」
「おにいさんもきてよ、おかあさん多分凄く怒る…おにいさんお母さんを知ってるんでしょ?わたしが怒られないようにお母さんに言ってよ、一緒にきて」
「ごめん…ね、君のママには凄く凄く会いたいけど………できないんだ。」
「………うん、わかった。じゃあまたね」
「うん、時雨」

お兄さんの優しい手が最後に時雨のほっぺたを撫でる

「君は本当におばあちゃんに似て強い子だね、きっと凄く凄く美人になるよ」

お兄さんの手を置いたところが重い。
勝手に瞼が降りていく

「おやすみ時雨…………また、いつか」

お兄さんが泣いちゃう。
そう思った時には、がくりと意識は落ちていった。











ハッとして頭を上げる。
心臓がドキドキ鳴りっぱなしで、時雨は思わずあたりを見回した。
相変わらずの動物の骨格標本と、たくさんの水槽。
かすかに聞こえてくる承太郎と教授の話し声。時計をみると10分ほどしか経っていない。
体を起こすと、まるでずっとそうしていたかのように背中が痛む。
あんな夢を見たせいか足が痛い気がする。
変な夢を見た。
あの男の人の顔が脳裏をよぎる。
あれは本当にあったことなのだろうか、
自分はあの美しい金髪の外国人から何時もの自己暗示を教わったとでも言うのだろうか。
何か大事なことが、大事な扉が開きそうで開かない。まだ何か足らない。
喉が湧いてきていることに気づくと、そっと席を立ち、承太郎達に気づかれないように研究室を出た。



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