しばらくしたら広い広い海の向こうの遠い遠い国にゆくのだと雲雀さんはいう。
わたしはここ数年見たことがない青い青い海を見ていた。記憶の中の、掠れて擦れて色の薄れたマリンブルーは、雲雀さんのきれいな瞳に映っているわたしの顔よりこっけいで、それはそれは醜いものだった。


「イタリアですか」
「イタリアだよ」


イタリア、イタリア、イタリア…。回ることを忘れたらしいあたしの可哀相なあたまの中を、カタカナ四文字が縦横無尽に駆け回る。誰か、地図帳をくれないか。
イタリアって、たしかヨーロッパにあったと思う。イタリア。


「つかぬ事をお聞きしますが」
「なに」
「イタリアって、日本から何メートル離れてますか?」
「…君の教室から応接室までよりは遠いよきっと」
「そう、ですか」


じゃあ休み時間に遊びに行くことはできませんね とわたしが言えば、そうだねと雲雀さんも言った。
もしイタリアがわたしの家と雲雀さんの家までより遠いのなら、わたしは休みの日に彼の家に遊びに行くことができない。
もしイタリアが並中と雲雀さんの部屋までより遠いのなら、わたしは放課後に彼のバイクの後ろに跨がり朱く染まった街を疾ることができない。
ああ彼と見た夕焼けはほんとうに綺麗だった。綺麗だったのだ。


「イタリアってどんなところですか?」
「行ったこともないのにわかるわけないでしょ。そんなの跳ね馬に聞いたら」


自分で名前を出しておいて不快になったらしく、雲雀さんは眉をひそめた。そんな顔をしても雲雀さんは相変わらずきれいだった。とても、とても。彼はクラスの友達がいつも読んでるファッション雑誌の女の子より、ハリウッドでいちばん偉い賞を獲ったというテレビの中の女優さんより美しいのだ。


話が逸れた、そうだ、イタリア。ディーノさんから話を聞いたことがある。きれいな街。すてきな街。写真も見せてもらった。女の子が憧れる、色とりどりの街。
そういえばあのあと雲雀さんが迎えに来たんだっけ。「なにしてるの早く帰るよあと跳ね馬彼女に触れないでくれる孕むから」機嫌の悪い雲雀さんがわたしの手を引いて、機嫌の良かったわたしは「雲雀さん、イタリアとってもすてきでしたよ。いつか行きたいなあ」と繋いだ手をぶらぶら揺らした。雲雀さんは「…僕は並盛のほうが好きだ」と西の空を見上げる。つられて見上げると、わたしたちの街を真っ赤に染めあげた太陽が、山の隙間に丸い体を埋めようとしているところだった。
「うわあ、きれい!きれいですね雲雀さん!」「うん」あの日の夕焼けはほんとうに綺麗だったのだ。ほんとうに綺麗だったのだ。


「イタリアに行って、何するんですか?」
「…跳ね馬と似たような仕事だよ」
「じゃあまた街を守るんですね!さすがです!」
「あの人君にそんなような説明してるの」
「俺の街に住んでる奴ら、俺の部下たちを守るのが、俺の仕事なんだ!」
「…それ跳ね馬の真似?」

「似てますか?」「いや全く」


イタリアに行こうがどこに行こうが、やっぱり雲雀さんのすることは変わらないらしい。ただ、彼が守るのは住み慣れたこの街ではなく、隣にいるわたしはそこに存在しない。


「雲雀さん」
「なに」
「いま唐突に夕ごはんをパスタにしないと明日一日不幸になるぞお前というお告げが頭に降ってきたのでパスタを茹でることにします!探さないでください!」


雲雀さんの返答も聞かずわたしはすくっと立ち上がり、キッチンへ向かった。
冷蔵庫を開けると吹き出した冷気は冷たいのに目頭がじんじん熱くなった。冷蔵庫にパスタはないことを思い出したわたしは小さく笑って扉を閉めた。

行ってしまうなんて考えたことなかった。だって彼はこの街を愛しているんだ。その次の次くらいには、わたしだって愛されてるはずなんだ。だと思ってた。
鍋に火をかける。あれ鍋を火にかける?火を鍋にかける?だんだんわからなくなってきたぞ。どうやら混乱している。突然の渡伊宣言に、わたしのちっさな頭はついていけてない。イタリア。イタリア、イタリア……


パスタを投入する。ぼこぼこと沸騰する鍋に、ぽたぽたと落ちる水滴がわたしの目からこぼれたものと認識するまでに、時間がかかった。磨りガラスから差す夕日がわたしの心臓を刺しているのではないかと思った。だって心臓がいたい。
しばらくっていつですか。いつイタリアに行くんですか。いつ帰ってくるんですか。雲雀さん、帰ってくるんですか?
怖いこわいこわい。そんなことを聞いたら返ってくるのは廃棄宣言のような予感がして、休み時間遊びに行くのも休日会いに行くのも彼の後ろに座って幸せな気分に浸るのもできないわたしの生活はばかみたいに色褪せている。


雲雀さんがいなくなる。雲雀さん……


背後でとん、と軽い音がした。柱に背を持たせかける雲雀さんがステンレスに映っていた。その顔は眩しい夕日に照らされてきれいだった。彼は、美しい。

わたしは振り返る。振り返ってから、涙を拭き忘れたことに気づく。みっともない顔が逆光で隠れることを祈った。


「雲雀さん、わたし、待ってます。ずっとずっと雲雀さんが帰ってくるの、待ってますから!だから、」

必ず帰ってきてくださいね と紡がれるはずだったわたしの言葉は、雲雀さんの眉間に刻まれていくシワを見て止まる。一気に不愉快オーラに包まれた雲雀さんが、大きく深ーくため息をついた。

あれっわたし呆れられてる?


「なにを勘違いしてるのか知らないけど」
「は、はい」

「君にはイタリアまでっていうかこれからずっと僕についてきてもらうつもりだから、ここで待ってられると困るんだけど?」


あといい加減火止めたら?アルデンテすぎて食べる気しないよ。唖然としていても雲雀さんの言葉はしっかり聞こえるらしく、わたしの手は無意識にコンロのツマミを回していた。

イタリア。女の子が憧れるきれいですてきな街。きっと夕焼けに照らされたそこは言葉に出来ないほど美しいに違いない。夕焼けに染まった街を雲雀さんとバイクで駆けるのは言葉に出来ないほど爽快に違いない。雲雀さんの後ろに座るわたしは死ぬほど幸せに違いない。イタリア、なんてすてきなまち!


言葉に出来る限りの愛を叫んで抱き着いたわたしに、雲雀さんがため息をついて抱きかえすのを感じた。喜びながらわーんと泣き出す始末の恋人か、アルデンテな夕食か、彼のため息がどちらに対して発せられたものかは置いておいて、わたしは今夜本棚の奥から地図帳を引っ張り出してこなければと決心した。



メーデーを救い上げた


091024

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