僕がヴァリアーを去ったあの日から(去ったというにはかなり乱暴すぎる出来事だった、)(だって僕は命惜しさに逃げ出したのだから)既に10年の歳月が流れていた。過ぎ行く時間は僕を着実に成長させた。当時赤ん坊だった霧の守護者は年相応の背丈になった。黒いマントを脱ぎ、今の身分相応の服に身を包んでいた。あの頃の何倍も速く、自らの足で街を歩いていた。
時間は着実に流れていた。



彼が暗殺部隊に身を置いていた頃、彼の部下には少女がいた。少女は変わり者だった。特に上司である彼にとっては。大した力もないのに前線に飛び出していっては、沢山の怪我をこしらえて帰ってきた。不思議なことに少女が任務を失敗したことはなかった。何か策があっての突入なのかと思っていたが、少女と関わっていくうちに知った。学習能力がないだけだった。

ある日彼は少女に告げた。


「今回は運が良かったね、でもそんなやり方ではそのうち死ぬよ」


笑顔で答えた少女の小柄な身体(それでも赤ん坊の彼よりずっと大きいのだが。)はあちこち包帯だらけだった。


「私、マーモン様を抱っこするまで死にませんから」

(あ、この子馬鹿だ)



少女は彼と仲良くなっていった。というのはあくまで少女が思っていただけなのだが、事実彼も少女には気を許していた。それを認めようとしなかっただけで。いつの間にか敬語は取れ、呼び捨てで呼ぶようになり、膝に乗せるようになった。彼の小さな歩幅を補うのは少女の役割になっていた。


「ねえマーモン、一緒にミルフィーユ食べようよ!」

「たまに思うけど、君は僕が上司だということを完全に忘れてるよね」


彼が追われる身になった後、一度だけ幻覚で少女に会いに行ったことがあった。少女がいたのは自室ではなく、そこよりも広くて清潔な彼の部屋だった。主を失った部屋を少女はずっと清潔なまま保っていたのだ。上司を失った少女は泣いていた。聞き慣れた明るい声とは違い、それは酷く切なく枯れていた。

彼は知った。少女が自分を愛していたことを。自分のために前線で闘い、傷つくことも厭わなかったことを。赤ん坊の自分を上司でも友達でもなく、異性として見ていたことを。
彼は後悔した。僕も君が好きだった、けれど僕の小さな身体では君を連れてゆくことさえ出来はしないんだ。ごめんね、せめて忘れてほしい、情けない僕のことを。






歩いていた僕の目に入ってきたのは巷で人気のケーキ屋だった。少女のことを思い出していたからだろうか、僕の足は自然と店内に踏み入れる。綺麗なショーウインドーには少女と一緒に食べたミルフィーユ、少女の好物だった苺ショート、チョコレートケーキ、…もう何を見ても浮かんでくるのは少女の顔。目眩がしそうで僕は踵を返した。甘ったるい匂いを振り切るように歩きだす、その時入口のベルが鳴り響いた。



嗚呼神様というものを信じたことはないけれど、もし存在しているとしたらそいつは大層意地が悪い。
10年ぶりに見る少女は、もう立派な女性だった。
以前の少女なら数歩進んだだけで躓きそうな踵の高い靴を履いていた。露出した肩や足に包帯はない。マフィアから足を洗ったのだろうか。指輪は見当たらないため結婚はしていないようだ(微かに安堵を覚えた)。


落ち着いた声で店員に幾つか注文する。はっきりとは聞こえないが、微かにミルフィーユと聞こえた気がした。店員からケーキを受け取ると、彼女がこちらに近づいてくる。どきり。心臓が大きく鳴った。


随分綺麗になったね。髪も伸ばしてるんだ。染めたりしてなくて良かったよ、僕はそのセピア色が気に入ってたから。背は変わらないね。今なら僕の方が高いかな?この10年で相当伸びたんだ。ねえ君は僕を覚えてる?僕に気付いてる?君の数歩先に居るよ。君に忘れてほしいと願った癖に覚えててほしくて仕様がなかった。ねえ、今なら僕は君を連れてゆける。抱きしめてあげられる。もし君が僕に気付いてくれたなら、










わかっていた。気付いてもらうには僕は変わりすぎた。彼女の中では、僕は今でもマントを被った赤ん坊なのだろう。思えば彼女は僕の顔を見たことすらない。入口のベルが鳴り響く。彼女がスカートを靡かせて遠ざかる。街の人混みに飲まれて見失うまでその後ろ姿を目に焼き付けた。


「何かお探しですか?」


立ち尽くしていた僕に営業スマイルを浮かべた店員が声をかけてきた。少し躊躇ったあと、「ミルフィーユをひとつ。」小さな箱を受けとって、僕はケーキ屋を後にした。




090822

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