「ちゃっちゃっちゃらりら〜」
「どれになるかしらねえ」
「僕なら銀行だね」
「ボスに迷惑さえ掛けなければあんな奴どこへ行こうと構わん」
「ブハッ!違ぇねえ」
…誰かこいつらに自重とか配慮とかいう言葉を教えたい。現在この能天気な同僚達の頭にある言葉といったら、他人事だの暇潰しだのそんなレベルだ。やってられるか。
俺は今すぐこの空間から立ち去りたい衝動を何とか堪えていた。他人事じゃない、俺自身の未来が掛かっている。それもベルに。
誰だあ、アミダで潜入先を決めようだなんて言い出した野郎は。ザンザスだ。いや、正確に言えば「カスザメが今度日本で任務だから潜入地適当に決めとけ」と投げ出したザンザスに、ベルがアミダとくじとじゃんけんを提案し、見事アミダが選ばれた。…小学生の席替えか!
もちろん何処に決まろうと任務を成功させる自信はある。そもそもこの空気で俺に拒否権はない。俺に残された行動はただじっと待つのみだった。
せめてグラスを投げる上司と仕事を丸投げする同僚の居ない職場に潜入したい。俺のささやかな切望など露知らず、ベルが一際大きな声をあげた。
「ワックにけってー!」
変わった客が来る。
毎週月曜、水曜、金曜の深夜。遅くまで塾に行ってるらしいそいつは、いつも11時過ぎに顔を出した。
俺の存在を知っているたった一人の客だ。
「あたし思うんだけど」
「なんだあ?」
「英語考えた人って頭おかしかったんじゃないかな」
「まずそう考えるお前の頭がおかしいことに気付けぇ」
英語のテキストを広げたまま唸る。かれこれ数十分。塾で和訳の宿題を出されたらしい。
「なんで英語なんてあるの?全世界日本語共通語にしたらいいじゃん。ジャパニーズイズザワールドでいいじゃん」
「意味わかんねえよ」
「だいたいさ、世の中アメリカ中心すぎるんだよ。贔屓だよ。だからアメリカが調子乗るんだよ。一旦アメリカなんて忘れて日本から全てを始めよう」
アメリカに八つ当たりしはじめたこいつは、英語のルーツがイギリスであることを知っているんだろうか。
「もういいあたし日本語圏で一生生きてくから」
ジャポネーゼなら誰もが必ず言う台詞をこぼしつつ、ココアを啜る。さっき俺が煎れたやつだ。隣に置いてある手の付けられていないカップは、俺の分のコーヒー。
店のメニューでもない、店員の誰かが持ち込んだ豆と粉だが、いつの間にかこれが定番の品になっている。
いい加減冷めているだろうが、気にする気配もない。最近めっきり寒くなった。
店のエアコンの温度を上げ、再びテーブルを拭く作業を再開した。初日に教わった通り、濡らした青い台拭きでテーブルを拭き、チェックの台拭きでから拭きしていく。
こいつに言わせると、俺のテーブル拭きはプロ級だそうだ。俺はテーブル拭きのプロなんざ見たこともないので判断のしようがないが、褒められて悪い気はしない。
何よりこいつの作り出す穏やかな雰囲気や空気、時間といったものを、俺は気に入っていた。ヴァリアーには絶対に存在しないものだ。
「教えてよイタリア人ー」
「面倒臭ぇ。自力でやれ」
「けち」
ほんとは日本育ちで英語出来ないんじゃないの?と鼻で笑われたので、テキストの最初の一文を声に出して読んだ。疑わしげだった目が丸くなる。予想以上だったようだ。どうだ驚いたか。
「それで濁音付きじゃなかったら、声帯交換したかったな…」
「う゛お゛ぉい、一言余計だあ!」
「母国語はイタリア語でしょ?英語も日本語も出来て、なんで深夜のワックで働いてるの?」
アミダで決まったからとは言えない。
「あー…日中は色々忙しいからなあ」
これは嘘ではない。任務の準備は着々と進んでいる。たまにベルやザンザスから来る嫌がらせの電話、メールさえなければ完璧と言っていい。
納得したんだかしてないんだか、黒い瞳は再びテキストに吸い寄せられていた。俺も台拭きをエプロンに突っ込み向かいに座る。いつ見ても自分のエプロン姿は残念だ。まずこの憎たらしい笑顔の柄が気に食わない。ヴァリアーの誰か、いや知り合いだろうとそうでなかろうと誰にも見られたくない。
こいつはもう今更だし、特に気にもしないが。何となくこいつと居ると調子が狂う気がする。
と、ふいに視線が合った。
「あ、そうだ、名前」
「あぁ?」
「お兄さんの名前教えて。あたしはバーガー」
「スクアーロだぁ」
って何一般人に本名教えてんだあ俺!!
訂正しておく。ベルとザンザスから来る電話とメール、そしてこいつさえいなければ、準備は完璧なのだ。
毎週ココアを飲む少女、とコーヒーを飲む青年
そういえば名前、知らなかったのかぁ
091016