授業終わりのチャイムが、ふわふわさまよっていたわたしのあたまを揺する。きりーつ、ちゅーもーく、れい。うすいベールがかかった視界で、英語の先生が教室から出ていくのを見送った。…また寝ちゃった。途中からぜんぜん記憶がない。あとでノート借りなきゃ……
テキストやノートをかばんに押し込んでいると、ふと、窓際がずいぶんにぎやかなことに気づいた。クラスの女の子たちが窓ガラスに張り付いてきゃあきゃあと騒いでいる。その中に友だちの姿を見つけ、眠気を吹きとばすように立ち上がった。
「あ、まひろ。おそよう」
「おそよう…」
「あとでノート貸すから」
「……よくわかっていらっしゃる…」
「何回目だと思ってるのよ。それよりほら、見てみなさい」
「ん……雨?」
つま先立ちで外を見てみれば、空はあいかわらずのどんより具合で、しとしとと雨が降っていた。朝は霧雨くらいのものだったけど、けっこう強くなってる気がする。
「それは午前中からじゃない。そうじゃなくてアレよ、校門のところ」
「?……ああっ!」
友だちの指の先を追えば、校門の前にひとかげ。ダークグリーンのチェックの傘からのぞくのっぽな頭は銀色だ。おもわずごくりと唾を飲む。あの傘、あのあたま、すっごく見おぼえがあるような……
「あれ、外国人だよね?新しいALTかなあ?」
「ばか、あれ男の子じゃん」
「この辺の子じゃないよねぇ」
「もしかして留学生?」
「ずっとあそこに立ってるけど…」
「だれか待ってるのかしら。ねぇまひろ、どう思う?」
待ってるんじゃないかな、わたしを。…なんて言ったらエンクロージャーよろしく囲い込まれてしまうにちがいない。わたしは引きつった笑みを浮かべて肩をすくめた。心の中はどきどきばっくばくである。
な、なんでいるの!?
「あ、先生来た」
だれかが発した一言で、窓際にむらがっていた女の子たちがいっせいに散っていく。最後にもう一度校門を見下ろしたわたしも、教室の扉がスライドする音であわてて席に戻った。
「…じゃ、雨なので傘の盗難には気をつけるように。以上!」
「きりーつ、ちゅーもーく、さような」
ら、まで聞き終わるのも待たずに、わたしはかばんを引っつかんで教室を飛び出した。友だちの「ノートはー!?」という叫び声が聞こえたけれど走り出した足は止まらない。ごめん、明日貸してね…!
見回り中の教頭先生に睨まれるのを無視して階段を駆け降りる。昇降口からのぞいてみると、今度は立ちすがたがはっきり見えた。白いTシャツにGジャンをはおって、ジーンズのすそは黒く染まっている。大人用のおおきな傘がぴったりなのは背が高いから。ALTっていわれても違和感ないかもなあ、なんて思う。あがった息を整えつつローファーを履いた。
「スクアーロ!」
傘をすこし傾けて、スクアーロがこっちに顔をむけた。雨降りの中駆けよってくるわたしを呆れた目で見ている。
「どうしたの?なんでわたしの中学に…ていうか、その傘うちのだよね」
「…頼まれた」
「だれに?」
「お前の母親」
「お母さん?」
「お前、傘忘れただろぉ」
あ。おもわず声がもれた。じつはこの前の雨のとき、わたしは置き傘を盗まれたのだった。それ以来、今スクアーロがさしているチェックの傘を使っている。
スクアーロの言い分から察するに、スーパーのパートから帰ってきたお母さんが玄関に置かれたままのわたしの傘に気づいて、ちょうどわたしを待っていたスクアーロに頼んだんだろう。お母さんは英語なんてハローとサンキューくらいしか話せないのに、よく話が通じたものだと感心してしまう。ふたりはわりと仲良しなのだ。
「……でも、なんで一本だけなの?」
「俺は持ってねぇ」
「お母さん、もうひとつ渡さなかった?」
「これしか」
傘をすこし持ち上げて肩をすくめるスクアーロ。単にわたしのお母さんがうっかりなのか、娘と娘の男の子の友だちにちょっとイタズラしてみたかったのか。たぶん後者だろうなあと思いつつ、わたしはスクアーロの傘に入った。ひとつの傘にふたりのひと。相合い傘ってやつ。小さいころ、お母さんとよくしてたなあ。あたらしい傘を買ってもらっても、わたしはお母さんの大きな傘に入るのがいちばん好きだった。それでよく笑われたっけ。
「天気予報、晴れだったのになあ……」
すぐとなりのスクアーロはわたしのつぶやきに反応することもなく、静かに雨空を見上げている。
「スクアーロ、いつから待ってたの?」
「……さっき」
「うそ。ズボンのすそ、濡れちゃってるよ」
「…2時すぎ、だぁ」
「ええっ そんなに早くから!?うちで待ってたらよかったのに」
「わからねぇだろぉ、いつ来るか」
まあたしかにそうなんだけど…。シミのできたジーンズのすそを見ていたらなんだか申し訳なくなってしまった。
スクアーロはわたしが雨で濡れないように、ずっと待ってくれてたんだ。いつ終わるかもわからないのに。自分の足もとが濡れてまで。それってすごくやさしいことだ。今だって、わたしの短い足にあわせてゆっくり歩いてくれてる。
「紳士だ、紳士」
「シンシ?」
「なんでもないよ。ありがと、スクアーロ」
にこっと微笑みかけると、スクアーロはぽかんと口を開けたあとそっぽを向いてしまった。あ、照れてる。かわいい。男の子にかわいいなんておかしいかもしれないけど。
「そういえば、スクアーロはいつも何してるの?わたしと一緒じゃないとき」
前から気になっていたことを聞いてみると、スクアーロはやっとこっちを向いて口を開いた。
「手入れ、修行」
「なにの?」
「剣」
ええっ? 思いもしなかった答えに声がうらがえってしまう。スクアーロ、剣道やってたの?
けれどスクアーロは首を横に振った。剣道じゃないならフェンシング?
「ちげぇ」
「うーん…じゃあ何?」
「…剣」
困ったように眉を下げてくりかえす。剣 なんて剣道とフェンシングしか知らないわたしは ふうん と頷くしかない。剣。剣かあ……
わたしはスクアーロがするどい瞳で橋の上に立っているところを想像する。向かい側には刀をかまえたつよそうな侍。「御免!」と叫んで、侍がスクアーロに切り掛かる。次のしゅんかんにはドサッと倒れる侍と、刀をおさめるスクアーロ……
「…スクアーロ、袴似合うね」
「は?」
「今度見たいなって言ったの。スクアーロの剣」
「…No」
「けち。……あ!」
立ち止まって空を見上げる。いつのまにか濁った雲はどこかに消えてしまって、青い空からおひさまが顔をだしていた。つられて傘を傾けたスクアーロも、ほうっと息を吐く。閉じた傘からぽたぽたとしずくが落ちた。
「なーんだ、すぐやんじゃったね」
水たまりを飛びこえておおきく深呼吸。雨上がりの空気がからだいっぱいに広がってゆくよう。スクアーロはずっと傘をささえていた左肩をぐるぐるまわしている。もうひとつ水たまりを越えて、あの角を曲がればわたしたちの教室だ。
じつは傘を盗まれたあの日から、わたしのかばんに折りたたみ傘がいつも入っていることは、わたしだけのひみつにしておこうと思う。
100305