「おかえり」


なんて言えるかよ。それくらいの日本語俺だってわかるし発音もできる。できるが、その意味がわかるからこそ言えない。イタリア語でも言ったことがないからなおさらだ。べつに俺はこいつの家族じゃねぇし、この家に住んでるわけでもない。おかえり を言う必要などないのだ。それなのにこいつは角を曲がって玄関に俺の姿を見つけるやいなや必ず「ただいま!」なんてへらへら笑いながら言うわけで、俺はというとその度こっ恥ずかしい思いをしながら「おう」と返すのだ。最初こそ意味がわからないふりができたが今はそうもいかない。こんな俺をどう思っているのか、まひろのことだから何も考えていないかもしれないし、気づいていて言わないのかもしれない。馬鹿なようで意外と鋭かったり、俺を驚かせたりする、ある意味食えないやつ。俺の周りにはあんなやついなかったから動揺するのかもしれない。キラキラ光る目は俺にはない希望だとか、未来だとかそういうものを持っていた。あいつには世界が虹色に見えるのかもしれない、そんな風に思うこともある。まあ実を言えばそこまで抽象的な話ではなく、俺が素直になれないだけなのだが。

「よくわたしに日本語教えてもらおうと思ったよね、スクアーロ」


宿題をする手を止めまひろが言った。いきなり突拍子もないことを言い出すのはよくあることで、今日もまた何となく考えついただけなんだろう。何と答えるべきか判断がつかずに俺は黙っていた。まひろはぼんやりと窓の外を見ている。あの日を思いだしているのかもしれない。俺はそうだった。






その日の俺はジャッポーネに来たばかりで、ここの平和な空気や腑抜けた人間たちにどうも馴染めずにいた。そもそも俺は日本に来るつもりなんてさらさらなかったのだ。何でこうなったのか、全てはやたらジャッポーネ好きの多いボンゴレのせいである。将来のために日本語も勉強しておいた方がいいか とこぼしてからあれよあれよという間にジェット機に乗せられていた。


俺はだいたい昼間に外出するようにしていた。この田舎町で銀髪の少年はいやに目立つ。人気のない時間帯にふらふらと出歩いては、いつイタリアに帰ろうかぼんやり考えていた。日本語を勉強するといっても、まさか教室に通うわけじゃああるまいし。そんな場所があるのかもわからない。よく利用しているコンビニから出ると、もう夕方に近い頃合いだった。いい加減米にも飽きてきたと思いながら自動ドアの閉まる音を聞いていると、変なものが目に入った。自販機の前、というか下というか、いる。度々見かける格好はこの辺の中学の制服だったはずだ。せまい自販機の下の隙間に片腕をつっこんだまま固まっている。俺も固まっていた。
と、ぎこちない動きでそいつは立ち上がった。幼い顔が俺の髪を見て驚いたように見開かれている。まんまるい目がこぼれ落ちそうで、そんなにでかくて不便じゃないかと頭の隅で思った。やがて気まずそうに目をそらす。さっきの様子からするに、コインを下に落としてしまったらしい。俺は腰を落とすと自販機の下に手をつっこんだ。奥の方で何かに触れる感触。確かにこんなに奥にあればこいつの短い腕では届かないだろう。コインを差し出したときにようやく、そういや汚かったなと思った。キョトンと目を丸くして俺を見つめる。歳はだいたい俺と変わらないだろうが、背が低く全体的に小さいせいでそれより幼くも見える。キラキラした両目がますます子どもっぽさを引き立たせていた。


「 」


少女が何か言った。さっきの店員も口にしていたから、おそらくお礼の意味だろう。お礼の返事など見当もつかずとりあえず頷くと、少女は覚悟を決めたように俺を見据え、もう一度口を開いた。


「…ア、アーユードリンク?」


何と答えたらいいのか、見当もつかなかった。






たとえば俺をジェット機にほうり込んだ大人たちだとか、にやついた顔で見送ったザンザスに感謝する気など毛ほどもないが、ともあれ俺はこの町でいろいろなものを得ることとなる。結果として俺には一回り小さい家庭教師ができ、日本語からツルの折り方までを身につけ、やがてこの家庭教師にたいするこっ恥ずかしい想いにも気づいてしまうわけだが、それはまだまだ先の話である。


101029

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