終わりの見えないデスクワークに屈したわたしはパソコンとの戦いを一時中断し、仮眠室に来ていた。目が痛い。ベッドにゴロンと横になって指でマッサージしていると、誰かが部屋に入ってきた気配を感じた。閉められたカーテンからはシルエットしか見えず、それが男だということしかわからない。嫌だな、と少しだけ落胆した。なにも起きたりしないとわかっていても、知らない男性と一緒の部屋で寝るというのは抵抗がある。けどいまさら仕事に戻るのも億劫だし……。ため息を吐こうとしたそのとき、カーテン越しにもっと深いため息が聞こえた。一緒に漏れたかすかな声に聴覚が反応する。


「…ツォンさん?」


シャッ、カーテンを開けると、思ったとおりツォンさんが立っていた。なまえ、と呼ぶ声に疲れが滲み出ていて思わず笑いがこぼれる。またレノが何かやらかしたんだろう。ともあれ相手が知り合い、それも信頼をおける相手だということにホッとした。


「…休憩か?」
「はい。ちょっと疲れちゃって…。ツォンさん、任務でしたよね。どうでした?」
「……どうもしないさ」


そっけない返事は、いつもの彼のものと違う。疲れているからだろうか。やっぱりレノかな。ツォンさん、ただでさえ最近疲れてるんだから、もう少し気をつかうとかすればいいのに。わたしの苦笑に気づいたツォンさんが、「笑い事じゃない」とでもいうように眉間にシワを寄せたので、ますます可笑しかった。


「なまえ」
「すいません。わたしのことは気にせず休んでいってくださいね。……あ、ツォンさん」
「何だ?」
「お帰りなさい」


それだけ言って目を伏せた。ただの挨拶だけど、ちょっと恥ずかしいな。ツォンさんが動く気配がする。多分ベッドに寝てるんだろう。わたしも寝ようっと。
全身の力を抜いたところで、耳元でくしゃりと音がした。何だろうと薄目で横を見れば、白いYシャツから伸びた腕。その手がわたしの顔の、ほんの、数センチ横に。


「う、わ!?」


ハッとして真上を向けば、ツォンさんの顔があった。え、い、いつの間に!ていうかこの状況はなに!ツォンさんがわたしの上に乗っかっていて、まるで、


「ツォンさん、あの、なにしてるんですか…?」


恐る恐る聞いてみる。ツォンさんは顔色ひとつ変えずに言った。
「私がなまえに覆いかぶさっているな。さらに他の観点からいえば押し倒しているようにも見える」


いやいやいやなにをそんな冷静に言ってるんだこの人は。顔が近い。逃げようにも顔の両脇に手をつかれていて身動きがとれない。こ、これは、もしかしなくてもまずいのでは。いやでもまさかツォンさんに限って。だいたいこんなことするキャラじゃないはずだ。とは言えこの状況では弁解ができないわけで。っていうかツォンさんめっちゃ見てるこっちめっちゃ見てる!


「ツォンさん早まらないでください!ほんとにどうしたんですか」
「…少々喧しいな」


ツォンさんは眉をひそめた。しかし口元は笑っていた。ツォンさんのこんなに楽しそうな顔をわたしは初めて見た。それはあまりにも凶悪だった。レノや社長を越える、もはや魔王に匹敵する悪さだ。その顔がどんどん近づいてきて、わたしはぎゅっと目を瞑った。「…ただいま、なまえ」耳元で息を吐くように囁かれる。


ゴチン


「〜〜っ!?」


額を激痛が襲った。声にならない悲鳴が口から漏れる。マンガに出てくるような、目から星が散るアレだ。くらくらする頭を押さえようと身じろぎすると、ずるりと何かが動いた。わたしに頭突きをかました元凶である。首元にぽすんと収まったツォンさんの頭はぴくりともせず、やがてゆっくり上下し始めた。
……え、寝た?寝てるのこの人?この状況で?嘘でしょ……

はあ、と大きく息を吐く。顔はまだ熱い。かなりビビったんですけど…。つんつんとつついても、抱きしめるようにわたしの身体を包んでいる大きな身体は反応しなかった。完全に眠りの底に落ちているらしい。…つまり、さっきのツォンさんの言動は疲労と眠気のあまり思考がおかしくなってたってこと?じゃあ起きたらすっかり忘れてたりとか?それはそれで納得いかないけど、タークスにとってはその方がいいのかもしれない。明日から気まずくなるし。上司とギクシャクするのはわたしとしても避けたい。


「はー、びっくりした…」
「何がだぞ、と」
「そりゃあ…って!レノ!?」


仮眠室のドアのすき間から顔を出したのはレノだった。どうしたのと問えば片手に持ったポーションを軽く振ってみせる。


「今回はさすがに迷惑かけすぎたから、お詫びにコレ持ってきたんだぞ、と」
「いや、ポーションとか軽すぎでしょ。せめてハイポーション持ってきなよ」
「でも十分回復したっぽいな。いいモン撮れたし」
「……は」


撮れたって、まさか。ニヤニヤするレノのもう片方の手には、ケータイがしっかりと握られていた。レンズがきらり。眩暈がする。
さっきのツォンさんが魔王だとしたら、こいつは悪魔だ。黒い羽が見えるのはきっと幻覚じゃない。


「アンタがそんなだからツォンさんが魔王になっちゃったんじゃない!死ね赤毛!!」


逃げ出すレノめがけて手短にあったティッシュボックスを投げるとひらりとかわされた。悪魔は鼻歌を歌いながら消えてゆく…


再び静寂に包まれた部屋で、ツォンさんの腕時計を盗み見ると仮眠室に来てからすでに1時間が経っていた。休みに来たのになんでこんなに疲れてるんだろわたし……


110130
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