絵を描くのが好きだった。デッサンも、人物画も、造形も好きだったけれど、ただ思いのまま筆を走らせることが好きだった。まっさらなキャンバスにチューブを押し付ける。ぶちゅ ぶちゅと気持ち悪い音をたてて絵の具が飛び出す。ときどき色を変えてはひたすらチューブを押し付け、最初の絵の具が垂れそうになってきたところで筆を取った。

だいぶ禿げてきた筆でキャンバスを撫でつける。世の中が飴と鞭で構成されているなら、このキャンバスも同じである。優しく、ときおり強く塗り潰していく。やがて元の白は隅にチラチラと見え隠れするほどに埋まった。しかしそれとは反対に、わたしの心はまっさらになってゆく。いや まっさらではない。透明に、消え入るように、わたしは空気になる。キャンバスに広がる色と、キャンバスに色を広げる筆と、どこからか聴こえてくる楽器の音と、今この空間にあるのはそれだけである。わたしは満ち足りた気分になる。すべては溶け合いひとつになり、透明になってゆく。絵を描くということは、わたしにとっては呼吸だ。


楽しいとか趣味だとかそういう意味を持って描いているわけではなかった。ただ物心ついた頃から絵を描いていたから、今も描いている。手を挙げるという行為には、目的はあっても意味はない。それと同じで、この感覚を味わうために絵を描いていた。



扉が開かれると、校舎に響く楽器の音がひときわ大きくなった。音楽の良し悪しはサッパリだが、あまり上手くないように思う。5つめの音で必ず引っ掛かるそれは一年生のものだろうか。馴れない楽器を抱えて、先輩にどやされながら同じパートを繰り返す様子は想像すると微笑ましかった。


「何笑ってるんだ?」


凛と響いた声に顔を向けると、いつもの人物が立っていた。フリオニール。彼はよくここに来る。わたししかいない美術室。課題の絵を終わらせるため、部活帰りに訪ねてきた彼と偶然鉢合わせたのがはじまりだった。銀色の髪に長い襟足をひとつに束ね、瞳は赤。顔立ちはなかなか整っている。美少年というのはこういう人間をいうのだろう。鋭い目つきなのに、浮かべられた穏やかな表情が温和な印象を与えていた。


「なんでもないよ」
「そうか?なんだか楽しそうに笑ってたから。…あ、また描いてるんだな」


わたしとキャンバスの方へ歩み寄ってくると、フリオニールはついさっきまでわたしが描いていた絵を覗き込んだ。彼は眉が釣り上がるだけで普通の人間の倍は真剣に見える。真面目なのは中身も同じだ。
じいっと絵を観察していたフリオニールがなにかを引き出そうとしているかのように、慎重に口を開く。フリオニールを観察していたわたしの胸も、この瞬間どくんと高鳴る。


「…海。夕焼けに照らされた……いや、朝焼けか。手前は暗いから…」


ゆっくりと、吐いた言葉を噛み締めるようにフリオニールは言葉を紡ぐ。彼は声もきれいだ。例えるなら、澄み切った湖畔の空気。口から出るのは二酸化炭素なはずだけれど、彼に限っては新鮮な酸素に満ちているようだ。マイナスイオンを発しているかもしれない。やがてフリオニールは目尻を下げ、困ったように笑った。これは降参の合図。


「参った。でも、海っていうのはいい線いってるんじゃないか?」
「ちょっと惜しいかもね」
「惜しい……あ、じゃあ湖とか?」
「さっき降参したでしょ。ざーんねん」


悔しげな声が上がる。わたしが思わず笑いをこぼすと、フリオニールは非難するような表情をして、そして笑った。こういうときのフリオニールの笑顔が、彼の浮かべる表情のなかでわたしが1番うつくしいと思うものだ。


「相変わらずお前の絵はよくわからないな」
「わかる人にはわかるものだよ」
「例えば?」
「ゴッホとか。ピカソとか」
「何だ、それ」


フリオニールが笑う。いつの間にか下手な楽器の音は止んでいた。諦めたのかもしれない。でも多分きっとまた、わたしはあの音を聴くことになるだろう。あの音の主がほんとうに音楽を愛しているなら。そういうものだ、ひとというのは。
時計を確認する。そろそろ帰ろうと思って散乱していたチューブの蓋を拾いあつめていると、フリオニールの細い指が同じようにそれを拾い上げた。元のチューブと組み合わせながら口を開く。


「じゃあ俺が最初に理解できるようにならなきゃな」
「そんな日が来ますかねぇ」
「来るさ」


いつの間にやらわたしを見つめていたフリオニールの目はいたって真剣だった。つられて口をつぐんでいれば、ふっと破顔する。


「俺はお前の絵が好きだからな。そういうものだろう、人っていうのは」


ああ、これはわたしのお気に入りの表情だ。もしわたしが写真家だったなら、間違いなくこの瞬間シャッターを押していただろう。カメラという媒体のないわたしは、他でもない自分の心のフィルムに焼き付ける。
なんだかむしょうに照れてしまって俯いた。手元にはトゥルーブルーのチューブにバーントシェンナの蓋。どうやら少なからず動揺していたらしい。まあ、そりゃあ、そんなことを言われたら、ね。変なところでストレートというか、まったく照れていないフリオニールはちょっとズレている気がする。わたしが言うんだから相当だ。

こんがらがるわたしの思考を止めたのは、鳴り響いた下校の音楽。もうそんな時間か。まだ片付けが残っているんだけど。明日早く来て片付けないと先生に怒られてしまう。


「フリオニール、もう帰っていいよ。電車の時間もあるでしょ」
「ああ…お前は?」
「一本ずらす。これだけ片付けたいから」


わかった とフリオニールが頷いて鞄を肩にかける。美術室の扉を開ける寸前、いたずらっ子のような顔で微笑んだ。


「また来るから。じゃあな」


パタンと閉じる扉。下校の音楽が流れ続けている。静まった頭の中でムクムクと形作られるのは次の絵のイメージだ。さすがに当てられてしまうだろうか、自分の顔が描かれてたら。楽しみなような、少し残念なような気もするし、ただ確かなのは、わたしはきっと来週の今日もこうしてわたしは絵を描いているってこと。


101121
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