うるさいな。起こさないでよ。まだ眠ってたいの。深夜にテレビをつけた時のようなノイズが鳴り止まなくて気がおかしくなりそうだ。起きないからってそんな子供染みた嫌がらせしないで。もう。ちょっと五条、やめてってば。聞いてるの?
真っ暗闇の中から、ぱちりと目を開けた。今日待ち合わせだったっけ?
映ったのは、渋谷スクランブルのど真ん中、大画面の中に動く映像。音はノイズがうるさくて聞こえない。あ、コレこないだ五条と見た金曜ロートショーのやつだ。私は見てたから気を取られてたら、集中できないから、って途中でブツッと消されてしまったので未練が残っているやつ。結局最後どうなったんだろ。
液晶のまわりには空が反射してビルが認識しにくい。鳥の気持ちが分かった気がした。見分けがつかなくて頭から激突して死んでしまうの。なんだか、フィルターを通したように視界が青みがかっている。
辺りを見渡すと、信号の色がなくなって車が動き出した。青になったのか。人はまばらだ。早い時間なのだろうか。誰も私を気にしていないように見えた。誰の顔もよく見えない。空のような海のような、透明感のある薄い水色を通して世界が見えているのは気のせいじゃないのかもしれない。
轢かれるし走るか、と踏み出した足は軽い。見上げていた靴先が地上に置かれている。おや、と思った。そういえば、もう寒くも苦しくもない。車が私をすり抜けていった。
疑問を口に出したはずの喉は震えない。上を見上げると光が降り注いでいるのは分かるから、きっと昨日みたいな晴天だ。きらきら光る青を見上げてボロボロになった自分の靴を見ていたんだ。
ひどい違和感がノイズと一緒に私の頭をかき乱す。肺を満たした青の冷たさを思い出して息が出来なくなった。ひどく胸が重い。
私どこまで沈んだのだろう?
最期の景色っていうのが網膜に焼き付いちゃったんだ。
*
疲れを感じない体で、高専への道を駆け通しで駆ける。とうに沈んだ肺は呼吸を必要としない。夜になるのが怖い。走り続ければきっと間に合うと信じたい。ひとまず目に映る自分の四肢が異形でないことに感謝しておこう。
呪霊は祓えたが、もうどうしようもなかったのだ。出血多量で呪力も足場も保てず溺死だろう。呪霊になるのは大分嫌だし、叶うなら五条に祓って欲しいから。
諦めることも目を閉じることもしない。生前の癖で行う一瞬の瞬きでも深海の黒が強烈に焼き着くから。直ぐにでもひどい呪霊に転じてしまいそうになるから。
嫌だな、こんなの。ただ一目でいいから五条に会いたくて、叶うなら五条に一言でいいから好きって言って欲しかった。
隣に居てくれた、居させてくれた、でも言葉を与えられたことは一度だって無い。なにかの拍子にそういう関係になってしまって、何年も今までずるずると。
目に映る景色だけが変わっていく。
温度も風も感じられない世界を揺蕩うのは何の刺激も受けないという意味で、心地が良く、そしてひどくつまらないものだと初めて知った。
世界と一体化したみたいな、溶けあうような感覚。脳髄を直接揺らしてくるような、世界の喧噪さえ除けば、まるで羊水に包まれているように己だけがある。絶対的な孤独。五条の気持ちが少しだけ分かったような気がした。
この耳さえ聞ければ、この声さえ出せれば。息すら出来ない私が、五条に好きだと言っておけば良かったと今更になって後悔している。大好きだって言いたかった。叶うのなら聞きたかった。叶わなくてこうなってしまうなんて情けない。
――ああだめだ声がひどくなってきた。これ以上考えるのはよそう。ゴオゴオとうるさい音を逆手にとって、そちらに集中すればいい。か細く聞こえてくる声は、人を呪う言葉でなくて、クジラの声だから。
*
辿り着いた彼の執務室は開けっ放しで、部屋の主はただぼんやりとしているようだ。お茶菓子が置いてあるから、きっとお昼だろう。死体はあがっていないだろうから、と真っ先に来てみたが、運が良かった。
高専の結界内に入っているというのに、未だアラートも鳴らず、術師たちの目にも映らなかった私は、呪霊になっていない今の私は、なんなのだろう。五条には見えてくれるだろうか。不安と期待でぐちゃぐちゃになりそうだ。
傍へ近付いてみると、机の上にはくしゃくしゃにされた紙が転がっている。直感的に、ああコレ私の良くない知らせが書いてあるな、と分かった。五条がゆっくりとアイマスクをずり下げる。
「……名前?」
胸が震えるような気持ちになった。
ああ、見えてくれているのだ。私の名前を呼んでくれたの、分かったよ。
誰にも見つからなかったのに、五条には見えてくれるらしい。彼に認識されたというだけで、喉がつかえていたような緊張も、私をかき乱すノイズも和らぐようだった。
「……何、してんの」
私と真っ直ぐ向き直って、彼がほんのり色のついて見える唇を震わせる。ただそれだけがこんなにも嬉しい。
「名前」
彼が立ち上がって、私の方へ手を伸ばした。肩を抱こうとしたその手は私に触れることなく空を切る。五条がうろたえたのが分かった。
「……名前だよね? ぼんやりとしか見えないけど、お前名前だろ。何やってんの」
深海の音がひどくって、何を言っているかなんて聞こえやしない。五条は人を問い詰める時早口になる癖があるから、唇の動きもほとんど追えなかった。挙句の果てに、記憶にある白い睫毛と青い虹彩は、今の私とすこぶる相性が悪い。五条、目が無い人みたいになってて面白いことになっちゃってる。
「もしかして聞こえない? 僕のことは見えてるんだよね?」
五条は何か言いながら私の目の前で手を振って、己を指差して、最後にギュッと自分を抱き締めた。分かった。『ねえねえ・僕のことは見えてる? 抱き締めて』だ。
とりあえず、五条の目だろう前で大げさに手を振り返して、五条のことを抱き締めようとしてみる。
「正解!!! さすが名前!!」
飛び跳ねて喜びながら拍手してくれてありがとう。嬉しいってよく分かったよ。
……意思の疎通を取りたかったのか。……もうちょっと他にやりようなかった? なんで私こんな男好きなんだろ……。
呆れた目で見ていると、五条が机の上にノートを広げてペンを走らせた。えっ! あっ! 天才じゃん! さすが五条!
“お前呪霊になってるよ”
えっ……。一言目がそれ!?
「さすが僕でしょ」
唇だけでも分かる。ドヤ顔をしてる。『さすが僕』とか言ったのかな。確かに文字を書いてくれれば読めるよ、さすが五条だよ。でも、ねえ、私やっぱり呪霊になってるの!? 嫌なんだけど!
“冗談ね”
冗談なの!?
“正しくは人でも呪霊でもない何かかな。将来呪霊になり得るもの”
「画数多くて霊って書くの面倒なんだけど……ってあれ? スマホでよくない? 何やってんだろ僕……」
あ、その手があった。スマホでいいじゃんね。五条天才!
“ヤバイ。お前の死後にライン一方的に送り付けることになるとは思わなかった”
“それで何でここにいんの? まだ正気みたいだけど”
なんでそんなこと聞くの!? 五条しか頼る人がいないし五条に祓って欲しいからに決まってんじゃん愚問でしょ!?
五条がスマホを差し出して私にタップさせようとした。すり抜けた。ふ、と怒りと諦めの相まったドヤ顔をしてやって五条を見ると、ちょっと思っていたのと違う雰囲気だった。肩を落としている。残念そう、に見える。……うてねーのかよ面倒クセー!! って手を横にヤレヤレされるかと思ったのに。
スマホが机の上に置かれる。五条は棚を漁り始めた。整理したら? って言ったのはいつだったか、全然してないね? 五条。散らかっているようで実際散らかっている書類は適当に突っ込んであるという表現が間違いなく正しいだろう。記憶力頼りだもんね。分かんないなんて珍しいね。何探してるんだろう。全然見つからないね。五条は黙って口をへの字に曲げた。可愛い。ウケる。
“地図どこだっけ?”
自助努力を諦めた五条悟。でもごめんね、それ私がこないだ出して適当にしまったから五条には見つけられないのも道理かな!! だって映画に色んな国が出てくるから気になっちゃって、大きい図の一面で見たかったんだもん。
ここ、と指差すと、あっけなく見つけた五条が地図を机に広げた。全然気にされていないので、お前使ったのね、と思っているだろう五条の心の声が聞こえた気がした。
“任務先このへんだったよね?”
頷く。
“どこで死んじゃったの?”
直球すぎない? 海だよ海。指差した。
“ゲ、海かよ。今そこにいんの?”
分かんないかな?? でも、クジラかな、低い鳴き声もたまに聞こえるよ。あ、ほら、今、多分クジラがいるところにいるよ!
身振り手振りで伝えてみようと、頭の先から手を出して、潮を吹くみたいにやってみた。ん〜、絶対伝わらないと思う。
“富士山の噴火?”
違う!
“多分潮の流れ的にこのへんじゃない? 水平線までデートしよっか”
そう大正解! さすが五条!! 絶対沖!!
五条が窓を開けた。手招きについていく。触れもしない私の手を取ろうとして取れなくて、彼が下唇を噛んだ。なんでさっきから、いつもの調子に茶化してくるのにそんなに悲しい顔してるの。
*
“仕方ないから徒歩ね”って、五条が海まで直線に敷いた道を歩いている。
“僕にオマエが見えて、オマエ地上歩けてんだからいけるんじゃない?”といった五条の読みは当たったわけだ。何か考えているのか、何日歩き続けることになるのかは知らないが。五条なら大丈夫だろう。私は人から見えないみたいだし。
日が沈みだす中、私は黙って五条についていく。並んで歩くのに手を繋いでいないのが新鮮で、寂しい。
五条は隣をゆっくりと歩き、時々気が付いたように話しかけてくれた。
“こないだ流し見してた映画のネタバレ見たんだけどさ、滅茶苦茶つまんない終わり方だったよ。最後、幽体離脱したヒロインがヒーロー追いかけて呪い殺して終わるんだって。ウケるよね。あ、僕は浮気してないから安心してね”
ブラックジョークかな。よくこの状況でその話できるよね。相変わらず深刻さとデリカシーが足りてない。まあ確かに気になってたからありがとう。
“お前が冷凍庫に入れてたお菓子は全部僕が責任もって食べるから心配しないでね”
複雑な気持ち! 私も食べたかった。お供えして欲しい。でもお供えしてもらっても食べれないしな。おいしいうちに五条に食べてもらった方がお菓子も喜ぶだろう。でも、たまには思い出してね。
“僕たちの初デート覚えてる? 渋谷の。色んなとこ行ったよねぇ”
どれを初デートと呼ぶんだろう。学生の時からみんなでも二人でも、渋谷は数えきれないぐらい行ってきてるから分かんないよ。新しいスイーツのお店は片っ端から回ってきたよね。
“のんびりしたデートもたまにはいいね。最近忙しかったからなー”
高専を出て、山をひとつふたつ超えた頃に日が沈み切った。五条が隣で伸びをする。
陰った海はとうに暗い。クジラの声は潜み、私を誘う声が延々と近付いてきていて、五条の白髪が目に眩しく映っている。
“もうちょっとお前とこうしてたかったんだけど、そろそろ時間切れかな”
月夜に煌めき始めた海はまだあんなにも遠いのだ。私をうかがった五条に頷いてみせると、五条は帳を降ろして掌印を結んだ。
五条悟が海を割く。鼓膜が破裂しそうな轟音と振動が身に降り注いで、音が止む。
目の前から一瞬居なくなった五条が、次の瞬間には私の死体を抱えて目の前に戻って来ていた。そんなあっさり見つけられてしまうと笑えてしまう。思ったよりはひどい状態じゃないけど、好きな人に見られたい形ではないな。
そんな私の顔を見ていた五条は、苦し気な表情を隠しきれていない。そんな顔してくれるんだ?
「名前、聞こえる?」
縋るように私を見て五条が言う。暗闇に包まれ始めていた視界も、音もクリアになって、五条のことがよく見える。聞こえるよ。
「良かった。僕もお前のこと、はっきり見えるようになったよ」
はにかんだ顔にやられた。やっぱり好きだな。なんでこんな男の事好きなんだろって思ったこと数知れないのに、やっぱり好きだ。
「長いこと待たせちゃうと思うけど、先に待ってて。あ、勿論生まれ変わりとか出来んなら大歓迎だからよろしくね。ほら、チューしてやるからコッチ戻って。僕お前が呪霊になんのなんか見たくないから」
亡骸を横抱きにして、五条は真っ直ぐに私に語りかけてくれる。ごめんね、戻り方分かんないの。ありがとうね、ギリギリまで一緒に居てくれたんだよね。
「あ、もしかして戻れない? じゃあ両方にチューしちゃお〜」
いや、ちょ、待って!? 何してんの!
五条が溺れ死んでひどいことになっている私の肉体にキスを降らせている。はたから見ると凄い恥ずかしいし、イヤほんと何してんの! やめて!? その私ボロボロだから!?
止めようと慌てて近付くと、ニヤニヤしながら五条が私を見下ろした。
「あれ、ヤキモチ焼いちゃった? 大丈夫、これからいっぱいするから」
楽しそうだね?? 人が死んでるっていうのに五条……。何から考えればいいのか……。
複雑な気持ちで眺めていると、五条が無限の上に私の死体を横たえた。それから彼も腰を下ろして、大きな手のひらで私の輪郭を優しく触れて、髪を整えてくれた。そういう細かい気は使えるのに、ホントさあ……。
「はい、お待たせ。おいで」
私を手招いた五条が両手を広げながら、いつもの調子で言う。イケメンってズルい。私もいつものように飛び込んだけど、透ける身体に体勢を立て直さないといけなかった。
上を見上げて覗き込んだ彼の瞳は、さっきまでの青とは全然違う。世界で一番きれいな青だ。私だけに向けられている彼の視線にたまらない気持ちになる。好き。好きだよ五条。好き。世界で一番好きだった。
「僕も、お前のこと好きだったよ」
これ以上の幸福はありえない。幸せになってね。視界いっぱいの五条の瞳が上塗った世界に満足して、私は目を閉じる。
声は途切れ、重かった胸が軽くなる。