「名前?」
後ろから手を引かれて、はっとした。連れ戻されたと感じた。冷たく足に触れていた水が膜を張ったように私へ触れることを避けて、五条の手だけが私を縫い留めている。
「なに?」
振り返り彼を見上げるのに強烈な既視感を覚えたが、目の前にいるのは夏油ではなく五条だ。
「海、入りたいの?」
「ううん」
あの日の質問がフラッシュバックする。
“どうして君は海が好きなの?”
問われた私はこう返してしまう。
“五条の瞳の色に似ているから”。
「靴、濡れちゃってんじゃん」
本質は異なり、悟の瞳は空色である。ならば空を好くべきではあろうが、空はあまりに希望が多すぎるように思う。死んだら紺碧の夜空を彩る星になるって、五条の光彩になって確かに傑は彼の中に息衝いている。そしてやはり星と同じように輝きだすには時間がかかるのだ。彼らは深く傷つきすぎてしまった。最初に夏油を傷付けたのはきっと私だっただろう。
「……帰ろうぜ。寒くなって来たし」
「私、悟の眼の色に似ているから、海が好きなんだよ」
彼は照れたように、ブルーグレーのマフラーを私の首にくるくる巻いた。夏、ここへ来たあの頃に戻れたのなら、私は何をするだろう。どうしたら、みんながいる来年の夏にたどり着けるのだろう。
きゅっと優しく握られる片手の温もりに、少しずつ、少しずつ息が出来なくなっていく。罪悪感と、後悔。焦燥感。
もうみんなでいられることなんてない。二人で生きていくのなんて、私が彼にしたように、真綿で首を締めていくようなものだ。幸せなのに、幸せじゃない。夏油がいない。
冬に海へ来るのは今日を最後にしよう。引き摺られそうになってしまう。そこにいるはずなんて、無いのに。
僕の視線の先にはずっと名前がいた。はしゃぐ彼女が砂浜を走り回って、サンダルが砂をまきあげる。白いワンピースの裾がひらひらと舞い、ジャリジャリするっ、てサンダルを脱ぎ捨てる。君がそうやってあの夏をずっと繰り返すのも、素足で砂を踏む君が一番可愛いのも、ずっと変わらなかった。怪我するぞとか言って、初めて彼女の手を取った時の気持ちを忘れることはない。昔の彼女は、水が体に触れないのを珍しがっていたな。
僕たちは手を取り合っていた。僕はそのつもりだった。なのに君すら居なくなっても夏が巡って来る。
隣の沈黙が僕の喉を締め上げて、息苦しくさせていく。無言が、空白が、有が無になることがこんなにもしんどいのだと、あの日の僕は知らなかった。隣を埋めたものが自壊することが何より僕を恐怖させ、全てを諦めさせていく。二人が僕に、最後に教えたことはそれだ。
「センセー!こっちこっち!早くー!」
「ホントしょうがないわね」
大声に顔を上げると、振り返って大きく手を振る悠仁、腰に手を当てて呆れているような顔の野薔薇、恵も静かに足を止め僕を見ている。
「ああ、うん。今行くよ」
青春のその先に、それを超えることは起こりえなくとも、今この瞬間を懐古してくれるだろうかと淡い期待を抱く。そう守ってやることで、自分の青春を忘れずにいたいのかもしれない。
「着いたらまず何する? 近い島まで泳いで上陸? それともモロコシ食う? 先にビーチボール?」
「日焼け止め塗んに決まってんだろ。手伝え」
「ハイ。伏黒は?」
「俺は別に、……泳いで寝る?」
「先生は!?」
みんなでいた時のように変わらない灼熱の太陽は今日の彼らを照らしている。きらきらと輝く瞳はいいね、若い。
冬になれば辺りは打って変わって静かになって、静寂の中、遠くを見ている彼女が戻ってきやしないだろうか。ただ一度だけ傑を弔うようにした、そんな冬でもいいから。
「先生ってば?」
「え、あ、何?」
「先生は海で最初に何する派?」
「僕? えービーチボールでもすれば?」
「普通だね」
「普通だな」
「普通だわ」
「何その僕はふつうのコト言わないみたいな」
ありえもしない想像をしているのに、瞼の裏で彼女が僕を振り返る。砂浜に足あとを付けて嬉しそうにはしゃいでいる笑顔の彼女が鮮明に思い出せる。五条って俺を振り向いて、悟って隣を歩いてた。必要なのは諦めだと分かっている。
僕と君のサンダルだけが夏に置いてけぼりだ。引き摺りこむように彼女をかき消したっつーのに、足先だけを返しやがって。