見つめる
紅潮
唇を引き結ぶ
距離
いつまで
えりぶぅ
「陣平ちゃんメシ食いに行こーぜ。いつもん所でいい?」
「おう」
「まあ陣平ちゃんのお目当ては店だけじゃねぇみたいだけど?」
口元に手を寄せ、からかうような笑みを浮かべる萩原に松田は「うっせ」と一言漏らした。
警視庁から徒歩数分の距離にある小さな飲食店――カレーが美味しいと評判の店に二人が初めて足を踏み入れたのは今から半年ほど前だった。専門店ではないがスパイスやメニューも豊富で、警備や任務が立て込んでいない時はよく顔を出していた。しかし二人――松田が足繁く通うのにはもう一つ理由があった。
「いらっしゃいませ」
「よっ、名字ちゃん。いつもの二つよろしく」
「かしこまりました。奥のお席にどうぞ。今お水お持ちしますね」
「サンキュー」
出迎えた名前に促されて二人が席に着けば、しばらくして名前が水を運んでくる。ランチタイムを少し過ぎた昼下がり――怒涛の日々を過ごしている二人にとって、ここは肩の力を抜いて安らげる場所のひとつでもあった。
「最近いらっしゃらないんで何かあったのかなって心配してたんです」
「結構いろんなことが立て込んでてさー、やっと一段落つけたのよ」
「そうだったんですね。なかなか会えなくてちょっと寂しかったです」
「俺らもここに来られなくて寂しかったぜ。な、陣平ちゃん」
萩原に話を振られ、松田は適当に返事を返す。ちらりと名前を見やれば、彼女の視線は萩原に向けられていた。その横顔だけで何を物語っているのかがよくわかる。松田にとってそれがどれほど面白くないことなのかも。
近況報告がてら他愛ない世間話を軽く済ませて、名前が二人の元を去る。その姿を見送った後、萩原が松田に顔を寄せて訊ねた。
「陣平ちゃん、いつになったらデートに誘うのさ。もう三ヶ月だぜ?」
萩原の一言に松田はどの口が言うか、と言いたくなった衝動を、すんでのところで短いため息へと変換する。問いに答えるより先に胸ポケットから煙草を取り出し、気持ちを落ち着かせるように目一杯吸って肺へと送り込んだ。
松田がこの店の店員である名前に好意を寄せ始めて三ヶ月が経っていた。明確な理由なんてものはない。懸命な仕事ぶりを見ているうちにいつの間にかそう思うようになった。その月日を『まだ』と捉えるか『もう』と捉えるか。今回ばかりは萩原の言葉が正しいかもしれない。
そして足を運ぶ度名前を見ていた松田は、いつからか彼女の視線の先にはいつも萩原がいるということに気付いてしまった。それは松田が名前を見るよりずっと先のことだった。
相手が他の見知らぬ男ならここまで気にすることもなく声を掛けただろう。しかし萩原ともなればそう簡単にいかなかった。
幼馴染で長い時間共に過ごしてきた親友と呼べる男だ。性格だって熟知しているし、萩原がモテることなど昔から周知の事実。仕事の腕前も折り紙付き。そんな彼を誰よりも長く、近くで見てきたからこそ松田は萩原のことを誇りに思っていた。そんな男が相手であれば、強引にでも名前を振り向かせようなどとは微塵も思わなかった。
萩原を理由に尻込みしているだけと言われたらそれまでかもしれない。事実特に進展もせず、気付けば肌寒い季節から梅雨入りするまで季節は変化していた。
「誘わねぇよ。萩だって気付いてないわけじゃねぇだろ」
松田に言われて萩原は気まずそうに「そりゃあ……」と言葉を濁す。
萩原が声を掛けるたび嬉しそうにしたり、時折頬を紅潮させる名前など見れば萩原でなくとも誰だって気付く。松田が心の隅で気に食わないと感じるのは、名前が親友である萩原に想いを寄せていることではなく、想いを寄せられている萩原にその気がないということだった。
「だからって遠回しに俺から先にお断りするのは違うだろ?」
「いくらなんでも告白する前に振るなんてそんな酷なこと出来るわけねぇよ」と言った萩原に納得出来ない松田ではなかった。
萩原だってもし仮に名前から正式に告白されれば、その時は正直に自分の気持ちを伝えるだろう。振るのは心苦しいが変に期待させる方がよっぽど名前に悪い。それに親友として松田のことを応援しているから、松田を相手に名前が恋をしてくれたらなんて思っているくらいだ。
しかし人を好きになるという感情は自分ではコントロール出来ない非常に厄介なモノである。ままならない想いを抱えた松田は、萩原の目にはまるで別人のように弱気に映った。恋は人を変えるということはこういうことか、と。
少なからず原因となっているのが自分であるということは感じているが、どちらかの肩を持つことはどちらかを苦しめることになる。萩原も内心複雑な思いを抱えていた。
「とにかく、あいつがお前を見ているうちは何もしねぇよ」
「アクセルしか付いてない陣平ちゃんは見る影もないねぇ。こういう時こそ押していかねぇと変えられるモンも変わらねーよ?それに女の子は押しに弱いって言うだろ?」
そんなことは言われなくてもわかっている。相手が悪い、ただその一言に尽きる。いっそ二人が付き合ってくれた方が清々する――なんて本心でないことを考えてしまうくらいには、松田は恋というものを拗らせていた。
◇
「いらっしゃいませ。今日はおひとりですか?」
「ああ。あいつは来る直前で呼び出し食らってな」
「それは大変ですね……あっ、お好きなお席にどうぞ」
名前と挨拶を交わし、適当に席に着く。
ここへ来るのは大抵萩原と二人だったため、松田と名前の間にはなんとも言えない妙な緊張感が漂っていた。
「いつものでよろしいですか?」
「あー……今日はコーヒーだけでいい。ブラック頼む」
「かしこまりました。……なんか緊張しますね。松田さんと二人でお話するの初めてだから」
ちらちらと視線を泳がせて名前は小さく零した。いつも間に萩原が入って円滑に会話をしていたせいで、言葉も態度もどこかよそよそしかった。その姿を見て、いかに自分たちの間に距離があるのかを思い知らされた気がした。
萩原が来られなくなったのは単なる偶然だが、これはある意味チャンスなのかもしれない。押さないと変わるものも変わらない、と先日萩原に言われた言葉を松田は思い出していた。
「初めてついでに聞きてぇんだけど、あいつ――萩原に告らねーの?」
「っ!な、なんでそのこと、」
「ンなもん見てりゃわかる。お前案外わかりやすいぜ」
そう、わかりやすいから内に秘めた肝心な言葉は口に出来ない。たとえ萩原にその気がないと知っていたとしても、それを名前に伝えることもなければ利用することもしない。情けないほどに松田は、いつまで経っても目に見える行動を起こせずにいた。
頬杖をついて名前を見上げれば、名前は居心地悪そうに顔を俯かせた。
「……する気はないですよ。だって萩原さんって特定の彼女とか作らなさそうじゃないですか」
「きっと特別にはなれません」眉を下げて力なく笑う名前に松田は無言で彼女を見つめる。客と店員という関係でそれなりに親しくなったせいか、名前は萩原のことをよく理解していた。そのことを松田もわかっていた。
二人の視線の先に映る人物は違えど、抱える感情は同じだ。ただその瞳に映る想い人との心の距離は物理的距離よりも遥かに遠かった。でも、だからこそ。
「今の話、萩原さんには言わないでくださいね?」
「言わねぇよ。けど――」
松田が徐に名前の腕を掴む。自然と体が動いていた。
初めて触れた名前の腕は想像以上に細く、思わず掴んだ手の力が緩んだ。突然のそれに名前が驚くも、構うことなく松田は続ける。
「同じようにお前を見てる奴もいるってことだけは覚えとけ」
松田の射抜くような眼差しに名前の瞳が揺れる。しばしの沈黙の後、松田はゆっくりと手を離した。
何を言うでもなくただ立ち尽くすだけの名前は、その言葉の意味をゆっくりと咀嚼して、くり返し脳内で考えた。考えて、ひとつの答えに辿り着いた瞬間、きゅっと唇を引き結んで逃げるようにしてその場を去った。
(告白のつもりじゃなかったが、あの様子じゃ――)
形容しがたい思いがため息混じりに空気に溶けていく。果たしてこの行動によって変わるものが変わっていくのか。
松田は手のひらをぼんやりと眺めながら触れた感触を思い返す。温もりを知ってしまった以上、もう見つめるだけでは収まらなくなってしまった。特別な存在として名前に触れたい、と。
もし再び触れる日が来るのなら、その時は彼女が一番大切な存在として隣にいて欲しい。なんて欲が明確に表れてしまえば、もう止めることは出来ない。
随分と時間が掛かったが、手始めにまずは誘いのひとつから。そして願わくば夏が訪れる頃には、どうか。