カラーパレット | ナノ

12 静穏ブーケ

 深呼吸

 落ち着いた

 飾る

 窓

 ため息
あや
  深く、けれど色の無い溜息は、私の口から零れ落ちるとそのまま窓辺に消えていった。
 校舎の窓から眺めるのは、同級生の戯れにしか見えない授業である。実際には、戯れというには些か過激な様子だけれど。
 ――あ、夏油君。派手に吹っ飛んだな。

 彼らと同じ学年の私が、なぜ一人で教室から同級生を眺めているのか。
 理由は制服のスカートから覗く包帯にあった。
 先日の任務で負った傷は歩けないほど酷いものでは無かったが、走るのには少し勇気が必要な程度に今も痛みが残っている。脚の付け根から膝下まで三十センチほどの線を引くようにできた切り傷は、硝子の反転術式をもってしても傷跡が残るだろうとのことだった。
 呪術師をやっている以上、こんなことは珍しくもなんとも無い。
 生傷が絶えないのはご愛嬌だし、もしもあの切っ先が振り下ろされたものでは無く、掬い上げるように空を裂いていたのなら。私は今頃、棺桶まっしぐらだっただろう。
 五体満足で、しかも歩ける。入院すらしていないのだからかなり軽傷な方だ。
「私って以外と強運だな」
 自分を納得させる言葉を教室の隅で独りごちる。
 吐かれた言葉とは裏腹に、指先は傷を確かめるように線をなぞっていた。
 視線を上げると、雲一つ無い青から燦燦と降り注ぐ陽射し。何かしら文句を言ってやりたくなるほど清々しい。いい天気である。
 そういえば怪我をしたあの日も、天気だけは良かったっけ。




 なんとか任務を片付けた私は、自力で補助監督の元まで帰ると同時に意識を飛ばしていた。
「もう着きますよ」
 声を掛けられて目を覚ますと、窓から見えるのは見慣れた山道だった。暫く呆けていると、高専の校舎前で車が止まる。補助監督は足早に運転席から降りて、私の座る後部座席のドアを開けると、立てますか?と憂わしげに声を掛けた。
「ありがとうございました、今出ます」
 出来る限り心配をかけないよう補助監督に微笑みながら話してみるも、実際には上手く力が入らない。死ぬほどでは無いが少々血を流しすぎたかもしれない。――この姿は三人に見られたくないな…五条君には特に。絶対指さして笑われる。そんな悠長なことを考えながら、もう一度立ち上がる為に体に力を入れた時だった。
 一体どこから聞きつけたのだろうか。人の気配にふと顔を上げると、目の前には会いたくないと思っていたうちの一人。物凄い形相をした夏油君が仁王立ちで立っていた。
「お帰り」
「ただいま…どうしたの?こんなところで…まさかお出迎え?」
 なんてね、と冗談を言って笑ってみせるものの、私をじっと見つめる夏油君の瞳には悲憤の色が滲んでいて、勝手に自分で怪我をしただけの話なのに何故だか申し訳ない気持ちになってくる。
 応急処置をしただけの太股から、じんわりと滲む濁った赤。誤魔化すように包帯を掌で隠してみても、あまり効果は無さそうだ。証拠に、夏油君の眉間の皺は深くなるばかりだった。
「医務室に連れて行くよ。悪いけど抱えるからね」
「え?夏油君が?!あ、ありがとう…」
 もしかして、その為にわざわざ出迎えてくれたんだろうか。
 都合の良い解釈に、しどろもどろになりながら答える。けれど答えた時には、夏油君はすでに軽々と私を抱き上げていた。
 背中に触れる大きな掌はやけに熱を持っていて、夏油君が私に触れている場所だけが焼けるように熱かった。どきどきと心臓の音がうるさいのは、怪我のせいだけでは無いんだろう。
 視線だけをこっそりと夏油君の方へ向けるといつもの飄々としている姿はどこにも無い。夏油君の表情には、滲む焦燥と自責が隠されることもなく露になっていた。
 私は徐々に淡くなる意識の中で、私が感じている全てが勘違いで無ければいいのにと祈らずにはいられなかった。



「…でもあの日から、どう考えても夏油君に避けられてるんだよなぁ!」
 甘やかな記憶を思い返したとは思えない程に投げやりな独り言は、鋭利な痛みになって自分の胸に突き刺さった。
 どんなに自分の都合の良いように記憶を巡らせてみても、口をついて出たのは引っき傷のような本音だ。しかも残念ながら、これは私の勘違いでは無いだろう。
 私を必死な様子で医務室まで運んでくれた夏油君は、あの日から分かりにくくも明らかに素っ気ないのだった。
 とは言っても二年生は四人しかいないので、授業から生活諸々、日常的には以前と何も変わらない。けれど夏油君と偶然二人きりになるようなことがあれば、上手く理由を引っ張り出して私を一人にするか、はたまた誰かを身代わりに彼はあっという間にどこかへ消えてしまう。そんなことがもう二週間以上続いていた。
 ――期待したりして馬鹿みたいだ。
 落胆を吐き出すように私は机の上に勢い良く突っ伏した。いっそのこと、あの日のことを全部忘れてしまえたら少しはこの気持ちも楽になるのだろうか。
 夏油君を前にすると、私はいつだって不格好で、情けなくて、何一つ上手くできない。今だって、背中に感じた一瞬の熱に、いつまでも縋っていたいだけ。勝手に浮かれて勝手に落ち込んで、ただの諦めの悪い子供そのものだ。…だからって、目に見えて避けられるのはやっぱり悲しい。
 熱くなっていく目頭に気付かないふりをして、私はゆっくりと目を閉じた。
 目が覚めた時には、自分の気持ちが今よりはいくらか軽くなっていることを信じて。




「名前…名前、具合悪い?」
「…ん……」
 誰かに声を掛けられている。
 朦朧とする意識の中で、大きな手が私の肩を遠慮がちに揺らすのが分かった。聞こえてくるのは、自分の名前だ。
 柔らかで繭のような声が耳を掠める。いつだって宥めるみたいに、優しくて落ち着いた声。――でもどうしてなんだろう。だって、私のこと。
「きらいでしょう…?」
「もしかして、まだ寝ぼけてる?」
 見覚えのある教室と、とっぷりと暮れた外の風景。憎たらしい程に注がれていた陽射しはどこにもなく、空には山の合間から星が無数に瞬いていた。
「おは…よ…う?」
「おはよう。随分寝たね」
声の方に顔を向けると、そこには私を避けている筈の夏油君が、いつも通りの様子で綺麗に口角を上げていた。
 ふわふわとした頭が覚醒するにつれ、冷や汗が額を伝う。これは…うん、つまり。
「………私、寝過ぎた?」
「正解」
 言いながら私の隣の席に座った夏油君は、こちらに身体を向けてすらりと伸びた足を組む。
 辺りを見渡しても、五条君の姿も硝子の姿も見当たらない。
 二人はどうしたの?と聞く前に「二人なら居ないよ」と私の考えを言い当てられてしまった。…私のこと避けてるんじゃ無かったの、君。
 一体どんな心境の変化なんだと首を傾げる。あんなに人のことを避けておいて、意外とただの気分屋さんか?もしかして何かの賭けだったとか。
 ネガティブな憶測をあれやこれやと想像して、もやもやが止まらなくなっていく。
 すると不満そうな表情が漏れていたのか、夏油君と目が合うと「別に名前のことを避けてた訳じゃないよ」と、また口にする前に考えを言い当てられた。
「夕食の時間になっても来ないからみんなで探してたんだ。携帯にかけても出ないし」
「あー…携帯、部屋に置きっぱなしだ。本当にご迷惑おかけしました…」
「全然気にしてないけどもう夕食の唐揚げは冷たいかも」
 しゅんとした口調とは裏腹にどこか楽しげな声色の夏油君だけれど、何よりもまだ六時そこそこだと思っていた私は教室に掛かっていた時計を見て血の気が引いた。
「え!待ってもう八時じゃん!一体どれだけ探してくれてたの本当にごめんね!」
「私が名前を見つけてから大体一時間ってとこかな?」
「どれだけ起きなかったの私…」
「起こしたのはさっきが初めてだから大丈夫」
「…………ん?どういうこと?」
「細かいことは気にしないで」
 夏油君はふわりと笑みを浮かべたまま、私の問いに答える気も無さそうだった。私を見つけた夏油君が一時間何をしていたのかは、この際考えないことにしよう。
 今私の目の前に居るのはいつもの夏油君。正確には、あの日より『前の』夏油君だったから。
「早く寮に戻らないと、夏油君まで夕飯抜きになっちゃう。私も行くから夏油君は先に行ってて」
「え?なんで?」
「ん?だって私、今歩くの遅いよ?」
「…あのさぁ」
「はい?」
「私は名前に、どれだけ薄情な奴だと思われてるの?一緒に行こう」
「でも申し訳ないし、既に迷惑掛けてるのに…」
 夏油君に返事をしながら立ち上がろうとするも、それは叶わなかった。
 私より先に立ち上がった夏油君が、あろうことか私の肩をぐっと後ろに押し返したのだ。
 ただでさえあまり力の入らない足に、私は成す術も無く椅子にストンと再び収まった。
「何するの?」
「…」
 夏油君は私の言葉に何も言わなかった。けれど肩に置いた手を離す素振りは一切無い。
 私の訳が分からないという顔を面白がっているのだろうか、夏油君はこちらを見て、ただにこにことするばかりだ。
 …これは揶揄われているな。そういえば、彼は五条君の親友なのだった。
 私はむっとした表情を隠しもせずに、もう一度立ち上がろうと足に力を入れる。すると夏油君は、今度は「待って」と言って、私の動きを制止した。
「名前。足の傷はまだ痛むかい?」
「…硝子がしっかり治してくれたからもう大丈夫だよ」
「でもまだ庇っているだろう」
「ちょっとだけね。でも来週からは任務入れて貰うつもりだし、本当に大丈夫!」
「立ち上がるのもやっとの癖に任務なんて、名前も大概死にたがりだね」
 揶揄われているんじゃなくて、実は喧嘩を売られている?
 ついさっきまでの和やかな空気は跡形も無く、じりじりと焦げつくような夏油君の視線に私はあからさまに眉を潜めた。
「まだ来週まで四日あるし、それまでにちゃんと治すよ」
「もし治らなかったら?次は死ぬよ。確実にね」
「死にたくは無いよ。でもみんなに迷惑もかけたくない…と思ってる」
 私みたいな平凡術師は、例え本当に夏油君に喧嘩を売られていたとしたら反撃する術なんて持ち合わせている筈も無い。けれどその圧倒的な実力差と自分の中の同級生への矜持とは、また別の話だ。
 対等にはなれなくても足を引っ張る存在にはなりたくない。それが『好きな人』なら尚更だろう。
 私が引くつもりが無いと悟ったのか、夏油君は大きな溜息と共に大袈裟な素振りで頭を抱えた。
「思った以上に名前は馬鹿なんだな」
 私を見つめる夏油君の冷え切った視線が、怪我の何百倍も痛く突き刺さる。
 視線を外すものかと強がりながら、どうしても手放せ無かった『もしかして』は今度こそ跡形も無く消え去った。じんわりと滲んでいく視界に、自分でも嫌気がさす。必死に唇の端を噛んでやり過ごそうとしても、徐々に溢れる涙は今にも目のふちから零れ落ちそうだ。
 兎に角、ここから逃げ出したい。
 耐えられなくなった私がもう一度立ち上がったのと、勢いよく腕を引かれたのは同時だった。
 窓から差し込む月明かりに、ぼんやりとした影が二つ重なる。
 抱きしめられていることよりも唇が重なっていることに驚いて、私は思わず夏油君の服をぎゅっと掴んだ。
「名前」
 一度離れた唇から紡がれた言葉に、どくりと心臓が跳ねる。手の先が冷えていくのを感じる。私が言葉を発するよりも先に、夏油君は再び私に唇を寄せた。
 ――ねぇ待って。どうしたの。なんでなの。
 そんな言葉を挟む隙なんて無いぐらい、絶え間なく注がれるキスに眩暈がする。ちゅっちゅ、と湿ったリップ音が嫌になるほど耳に付いて、恥ずかしさでどうにかなりそうだ。なんとか離れようとしてみるも、頭に添えられた手はびくりともしない。優しい触れ方に反して、私を離す気は毛頭無いらしかった。
「げと、うくんっ」
「黙って」
 唇が離れた隙に名前を呼ぶも、ぴしゃりと一蹴される。息が苦しくて薄く開いた唇を、今度はぺろりと舌で舐められた。
 思わず「あっ」と声が漏れると、その隙にと言わんばかりに夏油君の舌が口の中にぬるりと滑り込んでくる。味わう、なんて言葉がぴったりな程ゆっくりと咥内を這い回ったかと思うと今度は舌の先をちゅっと吸われて、背筋にひりひりと甘い痺れが走った。もうどちらのものとも分からない透明な糸が、唇の端から溢れて伝う。絶え間なく注がれる熱に浮かされて、頭の奥が痺れたみたいに何も上手く考えられない。ただただ得も言われぬ幸福が自分を貪っていくようだった。
 この束の間の幸福に身を委ねきってしまったら、自分はこれからどうなってしまうのだろう。
 真っ白な思考の中で一滴の黒を落としたような感覚だった。
柔らかな熱の中にちらついた確かな情炎を感じて、夏油君の服を掴んだ指先が一瞬たじろぐ。すると燃えるように熱かった夏油君の唇は冷静さを取り戻したかのように、私の唇からそっと、けれど名残惜しむようにゆっくりと離れた。
「名前」
 どこまでも甘く、優しい声だ。
 先ほどまでの距離を考えて恥ずかしさで顔を上げられないでいると、目尻に溜まった涙の上にキスを落とされて、私は初めて自分が泣いていたことに気付く。
 夏油君はもう一度ぎゅっと私を抱きしめると、消え入りそうな声で「ごめん」と口にした。
「すまない、こんなつもりじゃなかった」
「それ、どういう意味…?」
 目の前にあるのは夏油君の逞しい胸板だけで、顔は見えない。けれど私の問いかけに、背中に回る腕が微かに震える。
「突然、こんなことして」
「…もしかして夏油君は、無かったことに、したい?それなら私もそうするから…」
 上擦った声で、思ってもいないことを口にした。聞き分けの良い、馬鹿な女の台詞だ。けれどこのまま、何かをあったことにして素知らぬ顔で同級生を続けられる程私は経験豊富じゃない。自分がこのまま夏油君の隣に居るには、これしかないんだと自分に言い聞かせながら、溢れてくる涙を止める術を私は知らなかった。
「そういうことじゃない、ごめん…好きなんだ。名前のことが。好きだよ」
 私の目線に合わせながら、そう言うと夏油君は私の涙を指先で丁寧に掬った。
「名前のことがずっと好きだった」
「ほんとに…?」
「こんな嘘付く奴だって思われてる?」
 しょうがないけど、と自虐気味に眉を潜めた夏油君はそれでも視線を逸らさない。
 何度も期待して、その分だけ落ち込んで。でもどうしたって捨てられなくて、馬鹿みたいに大事にして。不格好に守ってきた心奥が、こんなにも静かな夜に帰ってくるだなんて、想像したことは一度だって無かった。
 夏油君が、私のことを好き。先程紡がれた言葉をもう一度、自分の中で反芻する。
 堪らなくなって夏油君に抱きつくと、優しく頭を撫でられた。
「私も、夏油君のことが好き。…その、知ってたと思うけど…」
「まさか。そこまで私は自信家じゃ無いよ」
「いつも涼しい顔で落ち着いてる感じなのに?」
「それは、そういう風に見られたいからさ」
 話ながらもやっぱりどこか落ち着いた様子の夏油君に、この二週間ずっと私を悩ませてきた出来事をぶつけてみる。
「二週間も好きな子を無視したの…?」
「それは…」
「それは?」
 夏油君の顔を見上げると、先程まではしっかりと視線を合わせてくれていたのに、今度はふいと逸らされる。
 バツが悪そうな顔をして、けれど私は夏油君の口からどうしても理由を聞きたかった。言葉を待つようにじっと見つめ続けると、観念したのか夏油君はぽつぽつと歯切れの悪い言葉を繋ぎ始めた。
「自分勝手だって分かっていても、名前の怪我を見たら言及してしまいそうで」
「え?それは…呪術師辞めろって、こと?」
「あまりにも子供じみてるのは自分でも分かってるよ。だから…言いたくなかったんだ。なのに、名前は私に少しも頼ろうとしないし…」
 不貞腐れた声色で不満をぼやく夏油君は、いつも大人びている彼にしては随分と年相応に思えて、少しだけ可愛らしい。
 こんなことを考えているのが知られたら怒られるんだろうな。考えながらも思わずふふっと笑い声が漏れる。
「夏油君、ありがとう。でも私は呪術師としても夏油君と一緒に居たいよ。だからもっと…ちゃんと強くなるね。昼間の五条君みたいに、投げ飛ばせるぐらい」
「そこまでになって欲しいとは思ってないし…あれ見てたの?」
「いっそ夏油君を守れるぐらいね、目指そうかと」
「………」
 すると夏油君は返事をしない代わりに抱きしめる力を一層強めるものだから、私の腑抜けた笑い声は瞬く間にくぐもった青息に変わった。
「折れるってば!夏油君がやったら冗談にならないでしょ!」
「私を投げ飛ばせるぐらいならこれぐらいは朝飯前にならないと」
「もう苦しいって――」
 あまりの息苦しさに苦情申し立てをしなければと口を開くと、言葉ごとぺろりと食べられて、私は顔を真っ赤にすることしか出来なくなった。
「夏油君は、もしかして意地悪…?」
「そんなこと無いよ」
 私のなけなしの強がりなんてどこ吹く風。
 夏油君は返事をしながら、おでこにちゅっと甘やかな音を一つ落とした。
 私は顔に熱が集まるのを感じながら、夏油君のにっこりと上がる口角を恨めしそうに見つめることしか出来なかった。








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