濃紫の花穂が枝垂れ、波のように揺れている。数多の藤に囲まれたこの庭が私のお気に入りの一つだった。全てが本物なのだ。天蓋を見れば飛びたいという意欲も失せる。どうせ出られないのだから。私と同じ色をしている花に親近感を覚えるのは当然のことのように思えた。この学び舎という名の牢獄に囚われている鳥、風切り羽を切られて飛ぶ事も叶わなくても、ひととき訪れることは悪ではない。
先生が薦めてくれた古書、握っている表紙が歪む音がして私は腕から力を抜く。
こんな生活に嫌気が差していた。全てをホログラムに置き換えることで物質的欲求を抑え、人間性を放棄している。綺麗な言い方にくるんで真実をひた隠し、あらゆる個性を白へ白へと塗り替えてゆく。過去に捨て置かれた遺物を好き好んで押し付ける。貞淑さと気品、失われた伝統の美徳。そんな人間と同じようになれれば濁らないのだろうが。
「柴田先生」
葉の緑が透けて薄明りが差す中、いつものチェアに腰かけている先生が見えて思わず名前を呼んだ。毎回会えるわけじゃないのに、今日の私は幸運な方だったようだ。相変わらず真白な襟足の長い髪に、アイボリーのベスト。よく見ると意外と逞しい背中の、後ろについてるだろう小さい面積のベルトの隙間に指を突っ込んで、ちょっとくらい弄んでやりたい、って悪戯心が芽生えるくらいには、私だけが先生に叶わない好意を抱いている。
「名字名前。遅かったね」
ゆっくりと振り向いた先生の金色の瞳に、何故か私は怖気づいた。なんだかいつもと雰囲気が違うような気がした。机の真ん中にはお茶のセットが乗っていて、やけにおいしいスコーンにジャムとクロテッドクリームをたっぷり塗って、ケーキを食べて、先生と本を読む。そのはずだ。今日も私は片手に本を。机の上にはティーカップがひとつだけ。先生にフルネームを呼ばれたことも初めてだ。
「座りなよ」
固まった私を察したのだろう先生が、唇だけで微笑んでいる。私は言われるまま向かいの椅子に腰かけて、体の力を抜こうと、空気を肺いっぱいに吸い込んで、吐く。そのくらいは許されてる気がした。芳醇な藤の重い香りが頭の奥の方をぐるぐる回って肺の中に染み込んでいく。
「君にとって恋慕とはどういうものなのかな」
もしティーカップが差し出されでもしていたら危なかった。確実にガチャンとはしたない音を立てただろうし、下手したら零したと思う。
そのくらい私はとても驚いたのに、先生は心底興味無さげに肘をついてこちらを眺めているんだからひどいものだ。光が反射してきらきら光る光彩と、暗い色を全部飲み込んだように黒い瞳孔、善と悪が一つになってしまったような何の感情も乗っていない目で私をのぞいている。
なんと答えるのが正解なのだろうか。真っ直ぐ見つめられているから、気恥ずかしさと得体のしれない恐ろしさとの緊張で目を逸らそうとした。しかし努力虚しく顔ごと逸れた。
「昔、花咲き病という架空の病が流行ったそうだよ、好き者の趣味として。想いが成就するまで、花びらを吐き続けるそうだ」
先生は鼻で笑って続ける。馬鹿にしているんだろうか。私に花は吐き出せない。どれだけ先生を想っていても花を吐き出すことは無い。先生は立ち上がって藤に手を伸ばし、愛でるように指先でなぞっている。先生の白い手の中にある藤は色味が増したかのように一層毒々しく美しく見えて、嫉妬心が芽生える。
「恋情は結局、肉欲的なものに過ぎないと僕は思う」
彼はそれを手折って席に戻ると、紅茶に漬けた。濃色のものには危険が潜んでいるというのが自然の理だ。濃く濁っていることは罪深く、白いことが美しい。
底の見えない色となった液体に何度か花房を泳がせ、先生が息を吐く。再度席を立った先生に持ち上げられた花はボタボタと水滴を垂らしテーブルを汚した。構わず先生は私の前に立ち、私のセーラー服も汚していく。
遮られた日差し、その影の中から見上げる先生は逆光に焼けて神々しささえ感じる。優しい表情で見下ろされて、それなのに、ここじゃないどこかを見ているような、なにか別のことを考えているような目線に絡め取られて、思考をするのが難しくなっていく。
今のままを言葉にするのなら、心臓が少しうるさくなって、顔が熱くなってきて、ちょっとでも気に入られたいって悪知恵が働く――それが私の恋かもしれない。
先生は、この世のものでないと思える程に綺麗で真っ白で。私みたいなこと、思ったこともなさそうだなんて。
「……それでも、花も吐き出せなくても、私は先生のことを見ると胸が高鳴って、一緒に居たくなります」
「この花には、決して離れない、という花言葉があるんだけれどね。花咲き病と言っても、相手を想っての花ならばむしろ味わわなければ」
白いことは美しい。白いことが“善い”ことだ。疑問を抱いてはならない。それなのに――全部先生のせいだ。先生のせいで私は変になってしまった。白がとてつもなく危険なものに思えて戻れない。白く美しい先生は善いはずだから、そんなこと考えたことも無いはずなのに。
先生は花びらを一つむしって、私の半開きの唇に触れさせている。これを“善い”こととしなければ、“シビュラ”の理、全てが逆転する。わたしたち二人は、善いことをしないし、さりとて悪いことをする身ではないのに。ここが果てであったと、彼も私も受け入れられない。この世界が、私たちふたりを受け入れていないのだ。
「この花には毒があって、君はもう目覚めないだろうけれど、僕がそれを愛だと呼んだら君は叶えてくれるのかな」
甘やかな声で空気を震わせる先生に、答える声も奪われている。私は小さく頷いた。紫の花弁に触れた唇は重く痺れ始めていて、焦がされるような熱が彼のしなやかな指先によって私の喉奥へと収められていく。
「証明してみせるといい」
私は抵抗をしなかった。次々と与えられる彼からの愛を飲み乾して例え命が散ろうとも、この恋はひとひらでさえ吐き出すまい。