※02 午後の薔薇の続き
五条家からの移動と連日の外出。それらに疲れてベッドへ背中から倒れ込んだ。一番疲れたのは昼間のお見合い。体力よりもどちらかといえば気疲れ。
はあ、と無意識に溜め息が出た。仕事は隠れ蓑で本当はお見合いが目的なんて知ったら、悟はどんな顔をするんだろう。黙ってるなんて酷い!って怒るだろうけれど、もうそういう年齢なんだからあまり騒がないでほしいわ。『婚約も結婚も誰ともしちゃ駄目だからね』なんて悟が言ってきたけれど、これだって五条の家に産まれた義務なんだから仕方がないのに。
はあ、とまた溜め息が出る。
五条家に産まれて、五条家の恩恵にあやかり、自由と引き替えに多くのものを与えられた。そこに不満はない。ただ、五条の家をなかなか離れられない私には、今このときが最後の自由時間になるかもしれない。
今ぐらい襦袢じゃなくて、この可愛いもこもこのルームウェアぐらい着たって良いじゃない。見合い相手に気に入られる淑やかで美しい相手を演じたもの。ちょっとした御褒美よ。着るのはこの部屋でだけだもの。可愛らしい自由時間でしょう?
仕事に、五条家に、見合い相手。気にすることが多くて疲れてしまう。ベッドに放り投げたままだったスマホを手にとってぼうっと眺める。途中になっていた漫画が映し出された。可愛らしい恋愛ものかと思って読んでいたら、ちょっと淫らな内容だった。こんなの読んでいるなんて本家が知ったら卒倒するだろうな。
コンコンコン、と急に扉から音がして思わず心臓が跳ねる。
「名前さん起きてる?」
この漫画を知られたら、と想像していたところだったから悟の訪問に肌が粟立つ。見つからないようにスマホの画面をオフにする。いつも可愛く甘えてくる悟に、これを知られて見限られるのはさすがにこたえるから隠さないと。
「起きてるけど、どうかした?」
「ちょっと話したいんだけど」
悟の声がちょっと切羽詰まっている感じがして首をかしげる。本家で何かあったのなら私にも連絡がくるけれど、それはなかった。悟の個人的な何かかしら。話を聞いてあげたいけれど、このもこもこの格好ではちょっと。私が明日には帰るから『最終日だから一緒に寝よう』なんて言うのかもしれない。そうだとしてその甘え癖はいつになったら抜けるの?可愛いけれど。いつまで経っても子どもみたい。
「ちょっと待って、寝間着から着替えるから10分ちょうだい」
「名前さんの襦袢姿なら見慣れてる。今更なに」
何?凄く声に棘がある。こんな低い声今まで聞いたことがない。悟からかすかに不機嫌や怒りを感じて扉を開けることを戸惑ってしまう。しかも、このもこもこのままで出てどんな顔をされるのか、考えただけでも怖い。
「ねえ、早く。こじ開けたっていいんだよ」
悟の呪力操作なら、高専の簡単な鍵なんて開けられる。無理矢理そうしないのは、いつだって私の嫌がることをしないように気を遣ってくれているから。このもこもこを見て悟がなんて言うか怖いけれど、多分悟なら大丈夫。
なるべくゆっくり扉を開けると、悟が待ちきれないと言わんばかりにその隙間から顔を覗かせる。瞳孔が開いた怖い顔をした悟と目が合った。そんな顔を見たことがなくて喉の奥が思わずきゅっと締まって息苦しくなる。怖い。
「名前さ、・・・ん?」
悟の全身が見えるぐらい大きく扉を開いても彼は入ってこない。その代わり、今まで見たことがないぎらぎらとしていた瞳が、きらきらとした青い瞳に戻り、私を頭から爪先まで何往復もして見ている。こんな格好を見られるの恥ずかしいから、やっぱりやめればよかった。思わず扉を閉めると、微動だにしていなかった悟の手だけ勢い良く動いて開閉を阻止される。悟の視線に耐えかねて、見ていないでなにか言って、と伏し目がちに小さい声で訴えた。
「わあ!いいじゃん!可愛い!でも足出しすぎだから僕の前でしか着ちゃダメ!」
「こんなの着てたら本家の人たち卒倒しちゃうわ。ここでしか着るつもりはないから」
誰に見られるかわからないからしまいしまい、なんて言って私と一緒に中に入ってくる悟は、いつもの可愛い悟だった。さっきの切羽詰まった声と瞳孔が開いた怖い顔は何だったの?
「もっと着てよ!可愛いじゃん!名前さんて和装が好きなんだと思ってたけど、そういうのにも興味あったんだね!明日にでも買いに行く?言ってくれたらそういう店リサーチしとくのに。僕には何でも言ってくれなきゃさあ。一緒に楽しめないじゃん!」
悟の情緒がわからない。さっき私が固まってしまうくらい殺気が滲んでいたような気がするのに。今はそれが嘘みたいに楽しそうに声を張って笑っている。
何か話があったんじゃないの?て話を振ると、一気に表情を失くして、部屋に来た直後の瞳孔が開いた顔に戻る。やっぱり怖い。そんな顔今日まで一度だってしたことがないのに。
「お見合い、僕聞いてないんだけど」
ああ、それを知ったのね。なんだ。
本家から悟が知ったという連絡はいまだに届いていないから、悟の独自のルートで情報を得たのね。五条家の誰かが悟にじかに話したのだとしたら、もっと速く彼に伝わっているはず。皆悟に甘いもの。そんな甘い皆が話さないのは、私の縁談を壊さないためなのに。皆の意を汲んで怒らないでほしいわ。
「言っていないもの」
「なんで僕に隠し事するの?」
「言ったら駄目って言うでしょう?」
「うん」
「悟、何度か私のお見合いを駄目にしてるでしょう?知ってるのよ?」
「だって名前さんをどこぞの馬の骨にやれないもん」
わがままどころか子どもの駄々じゃない。もん、じゃないのよ。あなたはもういい大人なのよ?可愛いけれど。
本家が私に良縁を持ってくることにどれだけ苦心しているのか悟は気にもしていない。五条家に見合う相手はそういないのに。まあ悟からしたらどんな良家だろうと馬の骨に見えるでしょうね。このお見合い、悟に潰されないように仕事を隠れ蓑にしたのに、失敗に終わっちゃったなあ。悟に情報を漏らしたルートは潰しておかなくちゃ。
「あのね、私たちもういい大人だし、そういう年なのよ。わかるでしょう?」
「わかんない。ダメなものはダメ。名前さんはそのままでいないとダメ」
悟は子どものころから本当に変わっていない。私が今でも少女だと思っているみたい。そういうイメージなのはわかっている。私が父母にいかがわしいイメージが持てないように、悟だって小さい頃から一緒にいた私にそんなイメージは持てないんでしょう?悟の私に対するイメージが壊れて背を向けられるのはつらいけれど、いっそそのイメージを壊そう。そうじゃないとお互いにこのままになってしまう。
悟は私と対だと思っている節があるものね?汚いものは自分が背負って、私は綺麗なものだけ周りに侍らせていると思ってる。でも、私だってただの本能を持った人間なのよ。それがわかれば悟だって私に対する清楚なイメージは覆るはず。
私は持ったままだったスマホのロックを解除する。それを悟に見せれば、受け取った彼は画面をまじまじと見ている。
「私だって誰かとデートもしたいし、キスだってしてみたいし、セックスだってしてみたいのよ」
私だって、その、ほら、あの、エッチな漫画、読むのよ?初めて読んだときに、そういうことがとても綺麗に描かれていたから、ときめいたりしてしまった。現実は漫画のように綺麗なものではないだろうけれど、興味を持ってしまったの。好きな人ではなくても、信頼できる人と結婚して、そういうことをしてみたい。ときめいてみたい。そういう夢を見ることは自由でしょう?現実は違うとしても。
言い訳じみたことを頭の中で馳せて悟の反応を待っても、彼は何も言ってこない。悟は眉間に皺を寄せ、眉を吊り上げて画面を見ている。そこだけ見ると不機嫌にも見えるけれど、左掌で口元を覆っているから実際何を考えているのかわからない。悟がスマホの画面を親指でスライドさせているから、私の予想外の嗜好に固まっているわけではないみたい。て、ちょっと何真剣に読んでいるの?読ませるために渡したんじゃないのよ?ただ見せただけなのにっ。返してほしくて手を差し出すのに、悟はそれを無視して指をスライドし続けている。
「名前さんは男とデートしてキスしてセックスしたいの?え?まさか今会ってる男とそこまでいったの?!」
「ただ会ってご飯を食べて喋っただけよ」
また瞳孔の開いた悟をなんとか宥める。
確かにキスとかセックスとか限定して言ってしまったのは私だけれど。そうだけど、そうじゃない。誰彼構わずという話ではない。なんという言い方。悟ってたまにデリカシーがない。
私の反論に、悟はホッとしてまたスマホを見ている。だから、スマホを返して。
「ただそういうことをしたいっていうんじゃなくて、末永く一緒にいる人とそういうことがしたいの」
結婚してからでも恋愛はできるってよく耳にするじゃない?私は体裁があるから、今そういうことが自由にできないだけで、結婚したら自由になる。そういうことに興味があるし、そういうことをするのなら未来のパートナーがいい。このまま悟の許可を待っていたら、私おばあさんになってしまうんじゃないかしら。私がむくれていると、やっと悟がスマホを見終わってそれをベッドへ放った。それから悟の表情が急に明るくなる。本当に悟の情緒がわからない。
「それ全部僕とすればいいじゃん!そう!それがいい!」
名案!というように悟が頬をほころばせる。ちょっと何を言っているのか全然頭に入ってこない。なんて?どうしてそうなるの?少し混乱したけれど、すぐに悟の魂胆がわかって肩を落とした。全部するなんてそんなわけがない。私を誰かにとられたくないからって、そこまでしなくてもいいでしょう?この年まで、同じ布団で一緒に眠ることがあっても一切そんな雰囲気になったこともなかったじゃない。
「ねえ悟、あなた私のことそういう風に見ていないでしょう?」
「?うん?んー・・・?見たことない」
顎に指を添えて考える仕草をした悟は、疚しさなんて微塵もないような真剣な表情で答える。
ほら、飼い殺しなんて真っ平よ。
「デートはできても、それで私とキスしたりセックスしたりできるとは思えないのだけれど」
「できるよ?シたいけど?」
「???????」
なんで?そういう目で見ていないんでしょう?
どういうことかわからなくて眉間に皺を寄せて首をかしげた。悟のことならなんでもわかっていると思っていたのに、今日わからなくなった。私を悩ませる当の本人は、名前さんそんな怪訝な顔もできるんだ!可愛い!と褒めちぎってくる。そこはいつも通りね。
「僕も知らない名前さんの体に、他のヤツが触るなんて絶対嫌なんだけど」
苦虫を噛み潰したような顔で悟が言う。そんなに?なんで?というか、悟ってそんな顔できたのね?怖いわ。
口ではそう言っても、関係が変わったところであなただって私に触らないでしょう?今まで手を握って爪を撫でることぐらいしかしてこなかったのに。隣で寝ていたって肩が触れ合うぐらいで、抱き枕にされたことすらない。
「単純に誰かにとられたくないからって、子どもみたいな独占欲を持つのはよくないわ」
「名前さんはどうとも思ってないヤツの経歴だけ見て婚約して結婚してセックスしようとしてんのに、それはいいわけ?」
だから言い方が悪い。私たちの知る結婚てそういうものでしょうに。悟はまるで悪いことのように言う。そういうもののはずなのに、悟の煌めく瞳が、悪い人間を選別しているように見えてしまう。まるで正義とは程遠いような人間なのにね、悟は。見た目は天使だけれど。今日も可愛いわ。
悟の責めるような言い方に、急に怖じ気付いてしまう。悪いことではないはずなのに。『私のことそういう風にみていないでしょう』と悟に言った私自身の言葉が胸に刺さる。この数日間デートした人とそういうことができるのか、全く想像ができない。できる気がしない。それでも婚約しようとしているのは、矛盾があると言われてもその通りだ。
「ねえ名前さん、僕にしてよ」
悟が私に手を差し出す。
いやでもだって、ずっと一緒にいる悟とだなんて。弟とそういうことをするようものではないの?悟を弟だと思ったことはないけれど。男の人だと思ったこともないもの。それでもこんなに懇願されると心がどうも動いてしまう。私、悟のお願いに弱いのよね。これじゃあ他の五条家の人間と同じだわ。
「名前さん?ダメ?」
悟が眉根を八の字に下げて甘えた声で訴えてくる。可愛い。こういう悟は見ていて胸の辺りがきゅうとなる。やっぱり甘えてお願いされるとなんだか断れない。可愛いんだもの。
悟に男性としての色っぽさなんて感じたことはない。安心感しかない。いつだって私に触れるとき許可を得てくれるし、優しく接してくれる。年上だから敬ってるのだろうし。もし、焦がれるような恋ができなくても、悟なら私のことを大事にしてくれる。それは絶対にそう。そう思うと、これ以上の相手はいないのかもしれない。
「私、放っておかれるのは嫌よ?」
「大丈夫、仕事なら断るから」
「それは駄目だってば」
悟が不真面目なことを大真面目に言うから、おかしくて口元が緩む。私が少し躊躇しながらも悟の手を取ると、悟がそれに飛びっきりの笑顔を見せてくれる。可愛い。頭を撫でてあげたいけれど、ちょっと遠いわ。変わりに握られている逆の手で頬を撫でてあげると悟がすり寄ってくる。可愛い。そのまま撫でてあげていると、悟のうっそりとした瞳がじいと私を見つめてきた。なんだかその瞳に急に落ち着かなくなってくる。見つめられることなんていつものことなのに。
「触っても良い?」
「いつも聞いてくれるけれど、もう好きに触ってくれて良いのよ?」
悟が繋いだ手を外して、私の両頬にそれを伸ばしてくる。いつも手を繋ぐぐらいしかしていないからか、悟は少し遠慮気味に私の頬へ触れる。ぴったりと頬に触れられることが心地好い。すりすりと撫でられると急に体が跳ねた。こういうの、たまにあるのよね。この間も悟に爪を撫でられたときに体が急に跳ねた。なにかしらね、あの、体がぞわぞわする感じ。
すりすりすりすり。いつもより長く撫でられて嫌でも悟の手の感触を意識してしまう。ごつごつとした肌触りに、急に男の人なんだと感じてどきどきとする。その手が下がって首筋を撫でる。
するりと撫でる感触が、痛くもないのに体が震えてしまう。なんだか私の体、変。ううん、ずっと前から変だった。今更気付いただけで。
「名前さん」
「?なあに?」
悟に自分の体の変化が伝わらないように、なんにもわかりません、と純粋なふりをしてにっこりと笑う。『純粋なふり』なんて、あんな漫画を読んでいるのにおかしな話だわ。純粋なふりなんてやらなきゃよかった。
「僕、名前さんに嘘なんかついてないよ?」
「何の話?」
悟が嘘をついているだなんてそんなことを思ったことはないわ。だってあなた私に嘘なんてついたことがないもの。寧ろ純粋なふりをした私の方が大嘘つきよ。
「名前さんに触りたいなって思うことはたくさんあったけど、疚しい気持ちなんか今までなかったんだよ?」
「さっきそんな風に見ていないって言っていたものね」
あえてにっこりと綺麗な笑みを浮かべた。かまととぶっているわけじゃない。でもなんだか、悟の様子が変だから。ちょっと、どころかだいぶ変。首を撫でていた悟の手が頬に戻ってくると、私の唇をその親指が撫でる。
ふにふにふに。ただ唇に触れているだけではない、なんだか私の体をおかしくさせる触り方。悟の頬がほんのりと桜色になっている。心なしか息遣いも荒い、と思う。
「名前さん、」
ダメ?と甘えた声で悟が囁いて、私の額に彼のそれをこつりと合わせてくる。ダメかと聞かれると、駄目だといつもなら答えられるのに、雰囲気の違う悟に緊張しているのか口の中が乾いて何も言えない。急に頭が回らない。顔が上に向かされて悟の鼻が私の鼻にくっついている。とても近い。顔を背けようにも、頬に添えられている手の力が強くて背けられない。
確かに『好きに触って』て言ったけど、だからってそんなに急に距離を詰めなくて良いじゃない?近い悟の顔を見ていられなくて目をぎゅうと閉じた。
ふに。直後、唇に柔らかい感触が・・・って、まだそんなことまでしていいなんて言っていないわっ!